橋本宅手話会そその2の2
それはどんな風に始まったのか?
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「「かつみくん」は街に出る中で、あらゆる物には名前があることを知り、どんどんそれらを漢字で覚えていきました。また一室にこもっていたころ、「かつみくん」は相撲中継のテレビをよく見て、そこに出てくる番付表を小さな黒板に書き、負けた力士の名前を消したりしていました。それで、意味はわからないながら、漢字には親近感がありました。かなとちがって漢字はそれだけで意味をつかみやすいところがあるので、絵を記憶するような感覚で「かつみくん」は漢字をどんどん覚えていきました。バスに初めて乗った停留所の名前、電車の駅…みんな感動を伴って一挙に覚えました。
そのころ、わらじの会と交流していたグループで、肢体不自由者たちと聾唖者たちが一緒に印刷所を運営しながら、地域社会に参加していこうという人々がいました。そのグループには、大工の棟梁など社会で活躍していながらも手話を知らず、これから学んでいこうとしている聾唖者もいました。この人たちがわらじの会に来て簡単な手話を教えてくれたりしてくれていましたが、橋本宅にも来てくれるようになりました。
「橋本宅手話会は「かつみくん」の体験したことを、自分で家族や他の参加者に伝え、家族やわらじの会などからの情報を本人に伝えるという、コミュニケーションの場としての役割をもっています。
はじめのうちは、「かつみくん」がまず絵を描いたり、彼と一緒に行動したわらじの会メンバーが絵や漢字の文を書き、それを先に述べた印刷所をやっていた聾唖者が手話で表現するといったやり方でした。家族も含めて、みんなが手話を学びながら、「かつみくん」は漢字を覚え、また「数」や「色」とか「交通ルール」とか、世界の骨組みに親しんでいったのでした。
そうやって始められた手話会は、「かつみくん」と家族の、また「かつみくん」・家族と他の人々とが、生活と思いを語り合う大事な場になっていきました。あいかわらず「かつみくん」は、時々荒れたのですが、家族の孤立感が少しだけ減りました。
しかし、このスタイルも、ずっとは続きませんでした。あの印刷所の経営が苦しくなり、運営していたグループが解散になりました。その後も聾唖者のAさんは来てくれていたのですが、やがて「聾唖の仲間から、身体障害者とつきあい続けるなら縁を切るといわれました。私はやっぱり仲間をとります。」という手紙をくれたまま、つきあいが途絶えてしまいました。
この頃には、「かつみくん」も簡単な手話は覚えていました。Aさんの代わりに来てくれる聾唖者はいませんでしたが、大事なコミュニケーションの場をなくすわけにはいきません。そこで、近所の子供たちやわらじの会にかかわり始めたばかりの青年たちなどに、「かつみくん」が簡単な手話を教えつつおしゃべりする場として、続けていきました。
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