小さな新聞9月号(月刊わらじ連載)


「健康」を「責務」とする社会とは?
健康増進法の「正義」への疑問

 「健康増進法」が5月に施行された。多数の人が出入りする場所の管理者は受動喫煙の防止に努めなければならないと定められた。これに伴って、駅の喫煙所が廃止されるなど、クリーンな環境が拡がっている。これは誰も反論のしようがない正しい方向であるかのようにみなされているが、はたしてそうなのだろうか。
 禁煙運動は80年以降アメリカで展開されてきた。健康被害のキャンペーン、広告規制からはじまって、公共の場所からの喫煙のしめ出し、政府によるたばこ産業に対する訴訟、喫煙者を採用しない大企業もあらわれた。「依存症」「ニコチン中毒」というマイナスイメージのレッテルをはり、「迫害・強制」の対象になっている状況をどう考えるか。
 ところで増進法の総則には「健康への努力は国民の責務」とある。「国民は健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、生涯にわたって自らの健康状態を自覚するとともに健康の増進に努めなければならない。」そして、その基礎資料として国民の生活習慣とガン・脳卒中などの生活習慣病との相関関係を調査し明らかにしていくなどとある。
 かつて「成人病」といわれていたものが1996年突如「生活習慣病」といいかえられるように公衆衛生院で決められた。これによって、病気になる人は、個人の生活習慣が悪いからだという思いこみをはびこらせ人々をよりいっそう健康志向へ、早期発見早期治療へとかりたてた。
 老化現象として自然にあらわれるものも検査結果が基準値外だと「病気」「予防」の枠に入れられる。無症状なのに薬を処方されている人の何と多いことか。個人が気をつけてもどうにもならない産業や都市の構造とその下での労働生活のありようから目をそむけさせる働きが「生活習慣病」というネーミングに潜んでいる。
 「健康でなければ生きている価値がない」と公言しているに等しい法律を、私たちは背負わされてしまった。