『月刊わらじ』2003年12月号表紙

 「年の暮れ」ということで、なんとなくこの写真を選びました。どうです?来し方行く末に思いが広がりませんかね。遠方から来て、遠方へ去ってゆく私たちにとって、カメラが切り取った一瞬とはどんな意味があるのでしょうか。走る人、歩く人、電動車いすで行く人、そのスピードはさまざまでも、いまこの時には誰もがそこに止まっています。そしてまた、この写真では、カラフルな装いを凝らした人も、地味な服を着た人も、みな灰色から黒への、薄暮の中に浮かび上がっているだけです。間もなく、このシルエットも、闇の中に溶けてゆくことでしょう。そんな闇の予感があるからこそ、このひとときの光が永遠に感じられるのかもしれません……。
 …種明かしをしましょう。この写真は、11月26日の交通アクセスINさいたまのひとこま。浦和の別所沼公園付近を県庁方面へ向かう途中で、まだお昼すこし前。小春日和で公園はとてもカラフルだったのですが、逆光で、またモノクロにしたので、夕方のように見えるだけです。
 イメージをさまざまにいじくること、思い込みを連ねてゆくこと、そんなことによって私たちは、実際に手にとって見ることのできない「一瞬」や「永遠」に迫ることもできます。そのとき「私」や「あなた」は、いつも「私たち」になっています。
 笑っているA子さんを見てうれしそうに笑うBさんに対して、Cさんは「あれは発作なのよ」と解説しています。たしかに発作ですが、Bさんに対するお返しの微笑がそこにはらまれていないと判定することなどできません。
 「正しい理解」を求め、思い込みによる「誤ったかかわり方」をただしてゆこうとすることが、しばしばいちばん大切なものを切り捨てることにもつながりうる気がします。一年の黄昏にぼんやり浮かんできた想念でした。