『月刊わらじ』2006年6月号表紙

 5月20日(土)の昼過ぎ、ここは「共に学び・共に働き・共に暮らす」をモットーとするフリースペース「はあとねっと輪っふる」のある埼玉トヨペット本社の会議室。食事をとっているのは手前から県立吉川高(定)をこの春卒業した目黒君とお母さん、その向こうが県立朝霞高(定)を卒業した佐久間さんのお母さんと本人。今日は、どの子も地域の公立高校へ・埼玉連絡会(斉藤尚子代表)の「卒業を祝う会」。同連絡会が、知的障害を含む希望するすべての子供たちの高校進学を求めて結成されてから今年で19年目。佐久間さんは定員内不合格を出され続けて7浪を余儀なくされた後、4年間の高校生活を送ったので、連絡会の歴史の半分をともに歩んできたことになる。佐久間さんの場合、中学校長が高校長に「私は養護学校を勧めているのだが、親が…」と伝え、高校も「コミュニケーションが成り立たない」と拒絶し続けたが、いざ受け入れてみれば…というより受け入れてみなければコミュニケーションは成り立たないのはあたりまえ。
 逆説的だが、高校は入試があり、「能力・適性」が基準とされるからこそ、その基準にそぐわない障害のある人々がこの競争社会でどうわたりあってゆくかが問われる大事な経験の場といえる。就労や自立生活に向き合うスタンスが、ここで確かめられる。連絡会20年を前に、これまで連絡会にかかわってきた生徒・親・教員など一人一人の体験を集大成し整理してみる時期ではないか。