『月刊わらじ』2019年03月号表紙

2019年03月号表紙

 樋上秀さんは、四半世紀を過ごしたこのアパートに、別れを告げたばかり。写真はまさに引っ越しのため片づけ中で、壁に所狭しと貼られた色紙なども一部はがされている。アパートの取り壊しが決まり、ほとんどの住民が引っ越して行った後も、樋上さんは行き場が見つからなかった。理由は二つある。ひとつは、できる限り近くでと樋上さんが希望したこと。もうひとつは、条件に合いそうな物件があっても、最終局面で入居を断られてしまったことだ。障害者が共に生きる街づくりは賛成だが、自分の隣には来てほしくないという意識は、もしかすると昔より強くなっているかもしれない。支援制度のために税金や保険料を払っているのだから、隣近所に迷惑や不安を及ぼさないでほしいという論理が普及してきた感じがする。
 樋上さんがここに住み始めたのは1994年。ここの前に1987年から近くの借家に住んでいた。いずれも東越谷。わらじの会が重度障害者職業自立協会(代表・八木下浩一)の店「トムテ」を東越谷に開店。その店長として独り暮らしを近くで始めた。わらじの会初期におおぜいで手伝ってくれた越谷市職の顔見知りが東越谷に住んでいたり、生活クラブ生協の生活館に出張販売したりして、つきあいを重ねた。当時ヘルパー制度は未整備で、障害者が街で生きるための介助者は、障害者自ら育てるのが原則だった。「元祖マザコン少年」、「貧乏神」を自称する樋上さんは自分の持ち味を生かして介助関係をはぐくんだ。「1週間に1回、その家の家族が食べる夕食を、自分も一緒に食べたい」その思いに、2軒の家族が応じてくれて、1軒は7年間、もう一軒は14年間続いた。樋上さんは生活保護の他人介護加算等をそれにあてた。ひきこもりがちの樋上さん自身のバネともなった。ほかには、通信制高校時代の同級生が就職後、営業回りの合間にゲームをやりに立ち寄り、その後片づけや掃除等、今でも関わってくれている。そんな四半世紀の記憶をひきずり、ここから電動で10分の借家で新生活が始まった。