吉見町の小学校普通学級に車椅子で通う篠田結花さんは、宿泊学習に出発する朝、楽しみにしていたバスにみんなと一緒に乗れず、別に用意されたリフトカーに学校が頼んだ介助人と一緒に乗せられた。介助人も常日頃学校で介助をしてくれている担当者ではなく、急遽社協から派遣されたボランティアで、凸凹の多いところではみんなと一緒に行動せず、結花さんと二人安全なところで待機するように教委・学校から指示されたという。
こうして一行が出発した後、我に返った母・三千代さんは友人達に相談し、教委にも責任を問ういっぽうで、結花さんともつきあいの深い介助者に連絡をとり、現地に赴いてもらった。その結果、なんとか結花さんもほかの子どもたちと別行動にさせられることなく、一緒に宿泊学習を楽しめたという。
上の写真は、篠田さん母娘が、吉見町のフレンドシップセンターで行われた埼玉障害者市民ネットワーク合宿で、ともども報告しているようす。
そもそも学校・教委は、この宿泊学習に際して早くから「親の付き添い」を求めていた。理由は「危険が伴うから」。しかし、その「危険」とはなんら検証されたものではなく、「親の付き添い」によって何が解決されるのかも不明だった。だから、その代わりに学校・教委が用意したのも、結花さんを「危険」(らしき場面)から遠ざけるには…という、それもアタマの中で考えられただけの対策だった。
何かといえば「親の付き添い」を求めてくるのは、教委が「本来は養護学校で教育を受けるのが適切」と結花さんについて判断しているからで、「本人・保護者の意思」だから普通学級においてやっているが、一刻も早く親のエゴや見栄を捨てて正しい教育・子育てにめざめるように指導するのが学校・教委の役割だと思い込んでいるからだ。しかし、「重い障害があるから養護学校での訓練や少人数教育を受けたほうが社会で生きる上で幸せ」、「知的障害だから同じ障害の子だけの集団で教育を受けるのが正しい」などと、一人一人の人生の「幸せ」や社会にとっての「正しさ」を決めたりできるはずがない。いくらきめ細かく分けたとしても、それは同じ。
結花さんが普通学級の宿泊学習の場にいたからこそ、各自のアタマの中だけにあった「参加」とか「安全」とか「介助」のイメージが、日常の中でつき合わされた。本人はもちろんのこと、クラスメートも担任も、親も学校も教委も、一人一人の生きかたや学校を中心とする社会のあり方を具体的に問われた。体験を共有することの大切さは、何物にも代えられない。