県特振協 20日に最終報告を提出 「普通学級籍」薄れ 「生きる力」押し出し |
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「共に学ぶ」めぐる論議公開の意義は大きいが
埼玉県特別支援教育振興協議会(宮崎英憲委員長)は、すべての会議の日程を終え、この20日に県教育長に最終的な検討結果報告を提出した。 その内容は、10月30日の全体会議に出された「検討結果報告(案)」を若干手直ししたもの。これを見る限りでは、前知事の年頭記者会見での「全障害児に普通学級籍」宣言やその伏線となった「彩の国障害者プラン21」の「分け隔てられることなく」という基本理念はどこへ行ったの?という感を強くせざるを得ない。
「生きる力」観がさらに子供たちを分ける最終報告
先に県民からの意見募集を行った「中間まとめ」の段階では「ノーマライゼーションの理念に基づく教育をどのように進めるかについて」というタイトルだけだったのに、「検討結果報告(案)」ではここに「障害のある子もない子も 21世紀を やさしく・たくましく生きぬく『生きる力』を育むために」というサブタイトルが追加された。このサブタイトルを追加した理由について、事務局の県教育局特別支援教育課は「予算をとりやすくするため」と特振協の場でもはっきり語っている。「生きる力」というのは文科省の新学習指導要領のポイントとして打ち出されており、「自ら学び自ら考える力、豊かな人間性などの『生きる力』」といった風に説明されている。その流れに便乗すれば、教員たちに「ノーマライゼーション」を理解させるために四苦八苦しないですむし、予算もとりやすいというわけらしい。現に、特振協でも教委や校長といった立場の委員は、「わかりやすくなった」と言っていた。
しかし「自ら学び自ら考える」とか「豊かな人間性」といったことは、個々人がその「力」を付けるといったことよりも、まずは国から垂れ流した学習指導要領を子供たちに流し込むことが教育であるという教育のありかた、社会のありかたの問題ではないのか。そこをふりかえることなく、個々人の「生きる力」を促してゆくという教育は、新たな形での競争を煽ることにしかならない。この「生きる力」と称される新たな学力競争を効率的に進めようとすれば、そのために邪魔な子供たちが新たにくくりだされてくる。通常学級の中で「LD」とか「ADHD」とか「高機能自閉症」というラベルを貼られる子供たちが増え、その「対策」が「特別支援教育」としてまとめられつつある現状は、まさにそれである。いっぽう、盲・ろう・養護学校の世界にこの「生きる力」を適用すれば、一部の就職可能性のある障害児たちの「生きる力」が大多数の障害児たちに足をひっぱられて損なわれないように、「高等養護学校」に隔離するという方向になるわけだ。
この「生きる力」は表紙だけでなく、本文のあちこちに盛り込まれた。そのことに示されるように、「ノーマライゼーションの理念に基づく教育をどのように進めるかについて」というもともとの骨組みはあちこちで崩され、文科省の「特別支援教育」に基づく「特別支援教室」、「特別支援学校」へのつなぎとしての「支援籍」が目玉になってしまった。
特振協と文科省の動きの関係をながめると
文科省はいま全国の都道府県で「特別支援教育推進モデル事業」として、モデル市町村に「特別支援教育コーディネーター」と称する通常学級・特殊学級・盲ろう養護学校の連携の要となる人を配置する事業を行っている。本県では、熊谷、戸田、さいたまの3市で実施されている。文科省は2004年度、2005年度で、全国すべての市町村に配置をめざすとしている。文科省のお役人があちこちで講演しているところでは、さ来年2005年度には法改正をして、2006年には特殊学級を「特別支援教室」に、盲ろう養護学校を「特別支援学校」に再編してゆきたいと述べているようだ。この話を聞いて、特殊教育にかかわる教員や保護者の間では、「特殊学級・盲ろう養護学校がなくなる」と不安を募らせている。しかし、調査研究協力者会議の報告などをよく読めば、特別支援教育とは「ノーマライゼーション」などの看板を掲げながら特殊学級・盲ろう養護学校を維持・強化しつつ、さらに6%と言われる通常学級の「手のかかる子」をここに組み込んでゆくための再編成でしかないことがわかる。
本県では特振協の報告を受けて、来年度予算に「支援籍」のモデル市町村とモデル養護学校の事業を組み込むとしているが、けっきょく文科省の「特別支援教室」、「特別支援学校」を先取りしたモデル事業といえそうだ。
特振協を終えたいま、市町村が焦点になる
このようにまったく不本意な結果となってしまった特振協だが、まったく成果がなかったわけではない。
この特振協の前身であった「特殊教育振興協議会」は、教育関係者を中心とした密室的でお手盛り的な場でしかなかったのが、共に学ぶ教育を求める立場の委員が参加する場に変わることにより、分け隔てる教育のあり方をめぐる議論が公的な土俵で激しく繰り広げられたことは大きな意味がある。また、この「検討結果報告(案)」にしても、「共に育ち共に学ぶための新たな教育システムの構築について」という課題を無視することはできず、矛盾に満ちたものとなっている状況は悪くない。
ところで、この特振協はあくまでも県教委の守備範囲のことを検討したにすぎず、また文科省の「特別支援教育」をめぐるモデル事業やその先の法改正の準備などは、あくまでも国としての守備範囲のことである。
「教育の地方分権」はいまさら語るまでもないことであり、就学指導をはじめ市町村の守備範囲のことに関しては、市町村自らが考えなくてはならない。まず手始めに市町村が取りかかれることとして、これまで障害の種類や程度によって、学校教育法施行令22条の3別表をもとに、「この子は養護学校が望ましい」、「お宅のお子さんは通常学級でいいです」などという形で判定を行ってきた就学指導のありかたをやめること。養護学校並みの予算を通常学級になんてことは、国の制度が変わらない限りありえないだろうが、「共に育ち共に学ぶ」ことを基本とした就学指導に変えるのは難しくない。現在の限られた予算の範囲でだが、誰もが本来は通常学級で学ぶべき子供としてみなされ、そのための可能な限りの支援を、教育サイドだけでなく市町村挙げてみんなで考えることが当然のことになる。 それでも予算は限られるし、地域の差別・偏見は残っているから、一部の教委や校長が不安がっているような通常学級へのなだれ込みは起こらず(期待できず)、特殊学級や盲・ろう・養護学校を選択する親子はそう減らないに違いない。特殊学級や盲・ろう・養護学校は障害の種別・程度に応じて用意された教育の場だから、希望が出されたときそこに行く資格があるかどうかという判定だけは残るだろう。その場合も、あくまでも地域で「共に育ち共に学ぶ」ための支援を続けることを前提にしてだけれど。