新年のおしゃべり会

新年のおしゃべり会
1月30日(金)
午前10時〜
岩槻ふれあいプラザで
岩槻市東岩槻6-6
048-758-1980
東武野田線東岩槻駅より南へ徒歩5分・駐車場あり

半年振りの岩槻です。
六澤さんに会場をとっていただきました。
就学・進路を間近に控えた方も、お繰り合< /font>


 新しい年です。明けて、おめでたい方も、おめでたくない方も、とりあえず今年もよろしくお願いします。
 月刊わらじ新年号に「どの子も地域の公立高校へ・埼玉連絡会」事務局の竹迫和子さんがこんなことを書いています

今年も「余計なお世話」を

 「2 0 0 3 年はなんだかひどい年だった。年明けに土屋前知事の『全障害児に普通学級籍』発言があり、いまどきそんないい話があるはずがないと疑いの気持ちはあったが、少しはいい方向に進むのだろうと期待していた。しかし、二重学籍だの、特別支援教育だのと、どんどんややこしく子ども達が分けられていく結果となった。この傾向は障害のある子ども達に限ったことではなく、学校教育全体が、できる子は伸ばし、できない子・問題のある子は切り捨てられていく。」と。しかしながら、「また、親の気持ちも『みんな一緒に』よりも『うちの子に合った』教育を望む傾向にあり、必ずしも高校へではなかったりする。なんだか私は余計なお世話をしているのかしらと思う時がある。」
 まったく同感なのですが、私の場合は「余計なお世話でごめんね」と居直ることにしています。だって「できない子・問題のある子は切り捨てられていく」といっても、当事者の親子のほうは「特別なニーズに応じた支援」を求めて進んでそこに乗っていくという場合も多いのですから。

「個別支援」が人々を追い込んでゆく社会状況

 竹迫さんは養護学校の現場で「個別支援」が強められる中で起こってきた事態を次のように伝えています。「問題点が明らかになって解決していくというよりも、お互いの不信感が強まっていったりする。親子に寄り添って、などとのんきなことを言っていられなくなる。また、個々の障害に対する指導が強まって、子どもが追い込まれかねない。障害が個人の克服すべき課題としてのみ扱われ、関係の問題であることが抜け落ちてしまい、結局は隔離された状態は変わらない。」
 私などが「障害をなんとかしようとするのでなく、そのままで社会とつきあっていくことに慣れ、社会の側がつきあいかたを会得していく体験が大事じゃないか」と言うと、親たちから「それは理想論。現実は甘くないんだから、個々人の発達に応じた手厚い支援を獲得してはじめて社会に参加できるんだ。」と反論が返ってくることがよくあります。それは実感なのだと思います。しかし、地域の中で分け隔てられ、個人として孤立させられた状況での「実感」の狭さを、私は3 0 年近く前の「総合養護学校をつくる会」の活動を通して痛感させられました。個人の実感を通して社会を見ることはできません。人が個人としてだけではなく、他の人々とぶつかったり、すれちがったり、折り合ったりすることを通して、社会とそこに生きる人々の姿がはっきり現れてくるのです。

「介護の社会化」がもたらす「寂しさ」とは

 介護保険相談員として毎月5 、6 回施設訪問をしてお年寄りと語らってくるペンネーム「オリーブ」さんは、同じ月刊わらじ新年号で、「デイサービス、老人保健施設、療養型施設、ここ数年でサービスの向上はされてきているように思えるのですが」、「何故か私はさびしい想いをして帰って来る。」と書いています。かってのような山奥の施設や蚕棚のような老人病院はなくなってきた代わりに、大規模な地域内分類処遇の社会がやってきました。厚生労働省のいう「老後の最大の不安である介護を国民みんなで支え合い、高齢者の自立を支援していこうとする介護保険制度」がスタートして、わずか4 年目の風景です。
 介護保険は「介護の社会化」をうたい、家族だけが介護を担うという状況を変えましたが、介護は専門職が担うものとし、専門職の大量生産をしたことによって、他の地域の人々が共に働いたり、暮らしたりしながら、介護の一端も担う可能性も奪ってしまいました。高齢者の就労や生涯学習が進められていますが、介護保険の「要介護」の人々は当然のようにその対象からはずされています。
 「『昔はどんな仕事をしていたんですか』その老人は『服の仕立て、婦人服を裁っていたんです。今でも出来るよ。足踏みから電動まで出来る。型紙も作るよ。』今度私の服も作ってもらいたいなと言うと、男性は「いいよ。でもここには何にもないからね。』私は『じゃ、手で出来るとこまで出来ますね。』と言うと『そうだね』と答えてくれました。しばらく話し込んでいると、最後に『家に帰りたいね』と言っていた。来月来ますねと声をかけたら『本当だよ』と言っていた。」
 「オリーブ」さんは、「一人で老いてゆく自分が最後まで自分の家で暮らしてゆける道をどのように探してゆこうかということがこれからの課題です。」と結んでいます。

日常生活の重みを確かめ合いながら

 近所の子ども達と一緒の学校に通い、同世代の人々が働く職場に参加し、自分の家で暮らすといったごくささやかな日常生活があってこそ、地域の中で他の人々と一緒に支援のありかたを見直し・練り上げてゆくことができるというものです。
 「個別のニーズに応じた支援」という口当たりのいいことばで、基本的な地域生活が分けられ特別な専門家の手に委ねられてゆくとき、障害のない人々も含め、互いの不信感や不安が増し、各々が閉ざされた状況に追い込まれてゆきます。このようにばらばらになった人々が、より強い力をもって権利・義務を確立したいという方向に動いて出来たのがアメリカの障害者法( A D A − 19 9 0年)であり、それにサインした大統領は翌年湾岸戦争を開始することになるブッシュ父でした。A D A は闘い取られた成果であるとともに、湾岸戦争( 1991 年) からイラク戦争へ突き進んでいったアメリカ社会の断面のひとつでもあります。
 竹迫さんは、「戦争を望んでいないのに、押しとどめる力を出せないまま、ずるずると入っていく。戦前もこのようにして戦争へ突入していったのか。」と書いています。
 「不安感」や「孤立感」、「さびしさ」を「個別支援」に直結させてしまうのでなく、そうした感覚をひきずりながら共に学び、共に働き、暮らし合う中で、めいめいの感じ方・生き方をつき合わせてゆくことが大事なんだと、あらためて思います。