黄色い部屋とは、埼玉県春日部市にある小さな診療所・谷中耳鼻咽喉科医院の一角にあるスペースです。壁紙と床が黄色なので、1983年に建物ができたときはすごく目立ちました。ミステリーの古典に「黄色い部屋の謎」というのがあります。また、ゴッホとゴーギャンが住んでいたのは「黄色い家」でしたね。「黄色い部屋にずっといると気がおかしくなる」といったタブーにさからってみたいという思いもあり、設計屋さんの反対をおしきって作りました。
ここは耳鼻科職員の休憩の場であるとともに、わらじの会の在宅の重度障害者が宿泊体験できる場として建てられました。そのため、車椅子から移りやすい濡れ縁、スロープ、広めのトイレ、浴室、上下できる流し・ガス台などが備わっています。
1984年10月、越谷市恩間新田の農家で暮らしていた故・新坂光子さんが、ここを利用して7日間の「自立生活演習」を行いました。「訓練」とか「体験」と呼ばず、「演習」と名づけたのは、意味があります。本人が何ができる・できない(他人の手を借りる)といったことだけでなく、介助にかかわる人それぞれとの関係、介助者相互の関係、その他の周りの人達との関係、介助者とその家族との関係、自助具や住居などの物的条件などをトータルに考えるという意味で、運動会の「予行演習」から言葉を借りたのです。
1990年、光子さんたちが分家という形を取って生活ホームを恩間新田に作ってからは、宿泊体験の場という役割はなくなり、耳鼻科の駐車場に建てられたプレハブ群とともに、光子さんたちを含む在宅障害者たちによる「自立に向かってはばたく家準備会」の活動センターとして使われました。また、その数年前から県内各地の共生・自立生活をめざす諸団体をつなぐ事務局の場ともなっていきました。1995年、くらしセンター・べしみなど、わらじの新たな拠点ができた後は、黄色い部屋は全県的な活動を、障害をもった人々自身がともに担う事務所になってゆきました(トップページの写真は、光子さんの妹・故幸子さんが介助者とともに火曜日の電話番に入っているようすです)。 2001年からは、社団法人・埼玉障害者自立生活協会の事務所も、ここに移ってきました。
他に、黄色い部屋を使って行われるわらじの会の重要な活動の一つに、月刊わらじ編集作業があります。食事あり、論争あり、ムダ話あり、時に闘争や逃走ありの異色の時間です。