夏休みにまぎれ 生徒・保護者に説明なく
「特別支援」名目で生徒達を品定め

県教委が県内小・中学校の全クラスで調査を指示

 埼玉県教委は、この夏休み中に、県内の全市町村立小・中学校の全ての通常の学級で、各学級の出席簿の1番から男女各5名を対象として、学習面での様子()、行動面での様子T(「不注意」「多動性―衝動性」)、行動面での様子U(「対人関係やこだわり等」)に関して、「特別な教育的支援の必要な児童生徒に関する調査」を実施している。

調査項目とカウントのしかた

 調査は75項目の質問に対し、担任が作業シートに回答を記入し、それを学年主任等と確認しながら、県教委の示す「判断基準」に該当する児童生徒の人数を求め、教頭が集計するという形で行われている。
 このうち、学習面の様子は「聞く」「話す」「読む」「書く」「計算する」「推論する」の6領域に分かれ、各領域に5つの設問がある。たとえば、「聞く」の領域では(1)聞き間違いがある(「知った」を「行った」と聞き間違える) (2)聞きもらしがある (3)個別に言われると聞き取れるが、集団場面では難しい (4)指示の理解が難しい (5)話し合いが難しい(たどたどしく話す。とても早口である。)といった設問がある。それぞれの設問について、0:ない 1:まれにある 2:ときどきある 3:よくある の4段階で回答せよとある。この回答の結果が12ポイント以上の場合、「特別な教育的支援を必要とする生徒」としてカウントする。
 次に行動面の様子Tは、18項目の設問があるが、たとえば「学校での勉強で、細かいところまで注意を払わなかったり、不注意な間違いをしたりする」とか「気が散りやすい」、「日々の活動で忘れっぽい」といった「不注意」に関する項目が9ある。また「手足をそわそわ動かしたり、着席していても、もじもじしている」とか「過度にしゃべる」、「順番を待つのが難しい」、「他の人がしていることをさえぎったり、じゃましたりする」といった「多動性―衝動性」に関わる項目が9ある。そして、同様に4段階で回答するが、回答の0と1を0点に、2と3を1点にして計算し、「不注意」、「多動性―衝動性」のどちらかの9項目の設問で、回答の点数が合計6ポイント以上の場合、「特別な教育的支援を必要とする生徒」としてカウントする。
 行動面の様子Uは、27項目あり、たとえば「大人びている。ませている」、「みんなから「○○博士」「○○教授」と思われている(例:カレンダー博士)」とか、「言葉を組み合わせて、自分だけにしか分からないような造語を作る」、「独特な声で話すことがある」、「とても得意なことがある一方で、極端に不得手のものがある」、「共感性が乏しい」、「仲の良い友人がいない」、「特定の物に執着がある」、「他の子ども達からいじめられることがある」、「独特な表情をしていることがある」など。これは各設問について、0:いいえ 1:多少 2:はい の3段階で回答し、合計が全体で22ポイント以上の場合、「特別な教育的支援を必要とする生徒」としてカウントされる。

分けるためにしくまれた調査

 このような調査の組み立て方を見てわかるのは、調査の前から予め学習面での困難、「不注意」・「多動性―衝動性」、「対人関係―こだわり」に関し、クラスの担任から見て、クラスの平均値と思われるものから大きくはずれるものについては、「特別な教育的支援が必要」であると決めてしまっていることだ。そういうルールにのっとっての「調査」なのだから、結果はやる前から決まっている。
 ではなぜ、「特別な教育的支援が必要」な子供が一定割合存在するという意識が教員たちの中に、そして一部の親やさらにごく一部の生徒本人に芽生えてきたのだろうか。それは地域社会の中で親達同士が切り離され、教員たちが地域社会で他の人々と暮らし合えなくなり、そうした大人たちの生活の反映として、子ども達もできる子はできるなりに、できない子はできないなりに、細かく分けて教育したほうがその子にとっても社会にとってもいい結果をもたらすのだという風潮が学校現場に広がりつつあるということだろう。
 しかし、分けることは何をもたらすか。分ける教育の弊害は、「障害のある子は盲聾養護学校へ」という別学分離の教育で、証明されつくしている。分ける教育は卒業後の閉ざされた福祉に直結する。社会の重荷は際限なく増してゆく。共に育つことなしに、共に生きる社会は創れない。
 だから、まずはっきりと打ち立てるべきは、「障害のある子も(もちろん「特別な教育的支援が必要」とみなされた子も)、自分の地域の通常の学級で他の子ども達と一緒に学ぶことが原則」であること。これを、市町村・県・国レベルで公けに確認することだ。そのことは、特殊学級や盲聾養護学校という場が、障害のある子にとっても個々人の特別な事情により例外的に行くことができる場であることになる。
 こうして、「分けない教育」を原則に考えるようになれば、教員・親そして子ども達の意識も変わるだろう。「特別な教育的支援が必要な子が一定割合いる」という思い込み自体が希薄にならざるをえない。

親達の思いと誤解について

 ただ、親達の中には、専門家によって自分の子供がLDとかADHDとか高機能自閉症と診断され、「特別な子だったんだ」と認知され、「親のしつけが悪かったわけでもなく、子供がたちが悪いわけでもない」と保証されて救われた気持ちになっている人もいる。これまで本人や親を責めてきた担任の態度があらたまり、「特別」な対応も考えてくれたり、クラスメートたちの理解も進めてくれるようになるためならば、この調査に基づいて「特別な教育的支援」が制度化されることを歓迎する人もいるだろう。親達は、子ども達が「谷間にいる」と考えている。身体障害や知的障害とされれば障害に応じた支援があるのに、自分達の子どもは与えられていないと。気持ちは分かるが、大きな誤解だといわざるを得ない。
 実際には、これまでの障害児教育は「障害のある子は通常学級に来るべきではない」という原則に基いており、「共に学びたい」という運動におされて各地の教委が「就学先決定にあたっては本人・保護者の意思を尊重する」と言うようになったいまも判定にさからって通常学級に入った子には「本来ここに来るべきでなかった子」というラベルが付いて回る。その延長として、中学の進路指導、高校受験、高校の受け入れ態勢、さらには就労に際しても、社会から「本来は特別な場(養護学校―福祉施設)で生きるべき人だったのではないか」と扱われてしまうという後遺症をひきずる。LDやADHDとされた子供に対して「特別な教育的支援」がなされるようになっても、「分ける教育」の基本構造が変わらない限り、専門家の立てたプログラムを丸ごと受け入れない限りは、「本来は別のプログラムに従うべきだった子」とされ、厄介者扱いされてしまうだろう。

こんな調査して何が人権教育だ

 それにしても、この75項目のチェックを自分の担任する子どもたちに対し、業務命令に従ってのこととはいえ、実施してしまう教員たちの人権感覚マヒを痛感する。「留意事項」として、「調査の実施に当たっては、質問項目を直接児童生徒に尋ねることなどがないよう児童生徒の人権に十分配慮するとともに、調査結果及び集計結果の取り扱いに際しては、児童生徒の個人情報の保護に留意する。」とあるのみ。無断で個人情報を操作しておいて、「個人情報の保護」もないだろう。こっそりやれとしか読めない。だからこその夏休みなのか。県教委には、「人権教育課」があるが、こんな人権侵害を許していいのか。
 昨年夏休みに同様の調査を実施した東京都では、いくつかの学校で調査を拒否し、また都教委、市教委への抗議や個人情報保護条例に基づく情報公開なども行われた。今回の県教委の調査の問題性については、8月30、31日に行われる埼玉障害者市民ネットワークの総合県交渉で、とりあげられる予定だ。みなさん、参加しましょう。