社団・ノーマライゼーション・セミナーUより @
表題のテーマで10月28日に行われたセミナーの一部を紹介。このセミナーは(社)埼玉障害者自立生活協会主催の「ノーマライゼーション・セミナーU」の「基礎セミナー」の第2回。障害児の入学を多数受け入れてきた県立吉川高校定時制のかっての生徒・高橋さんと教員・小沢さんからの現場報告と高校を不合格になった障害児の親の立場から武内さんの講演のハイライトを。
また同協会の「生活と権利・研修セミナー」では10月23日に「子供は変わったかPart2」と題し、車椅子の大学生・田中さん、地域で共にと活動し続ける養護学校教員・小川さんからの現場報告、そして児童相談所職員の門平さんによる講演を中心とするセミナーも行いました(次ページ)。詳細は同協会機関誌「通信」をご参照下さい。
高橋正治さん:中学のとき家が貧しく公的な保護を受けようとしたが「市民税を納めてないので受けられない」と担任に言われたりした。憤りをもって高校に入っていたので、希望する人生を歩めない人たちを目の前にして知らん顔はできないと思った。友達も不登校だったり、家庭に問題を抱えていたり、そんなもやもやを自分達が抱えていたから応援した。自主登校していた二人をどうしようなどと考えたわけではない。富美ちゃんに「あたまクサイ」と言われた記憶はあるが、二人より彼女達のお母さん達とつながりをもっていた。生徒も賛否両論で、「気持ち悪いやつとつきあっている」と言われ、よく自転車を壊されたりもした。「障害児が入れるような高校になってしまうと、自分が卒業するとき就職に困ってしまう。」と切実に思っている生徒もいた。自分や一緒に活動していた友達は、根拠がはっきりしないことには納得がいかなかった。教員の中に「いま職員会議でこうなっている」と詳しい情報を伝えてくれる人がいたので、取り組むことが明確だった。「こういう考えをもつってステキだな」と思える教員と出会えてよかったと思う。自分の中で大きい出来事だと思う。
小沢孝雄さん:吉川高校定時制に就職していなかったら全然ちがう人生だったろう。皆さんとも出会ってなかったろう。ほんとうに大きな出来事だった。最初に就職したのが吉川高校定時制。シンナーくさい教室、今日は何人の教員がなぐられたといった毎日だったが、目の前にそんな状況があり、逃げられない以上つきあっていくしかない。生徒達にとってはここが最後の居場所だった。教員たちは来る子はみんな受け入れようという姿勢でやってきた。障害児二人が入りたいといったときも、自分としては「いいんじゃないですか」と言った。入試で初めて会った。ちょっと大変だなとは思ったが、受け入れようと考えた。しかし、職員会議では反対が多く、もめにもめて、その年は不合格になった。吉川は前からオープンな学校で、生徒が友達を連れてきたりしていた。それでまず部活に受け入れる形で自主登校を始めた。目の前に本人達がいる状況になり、初めて人は動く。半年くらいやっていて二人の存在が大きくなった。話がつくまで毎日会議をやっていたとしても進展はなかっただろう。そうやって入試の選考会議でも受け入れようという意見が大勢を占めた。入試なんてそんなもの。入試をすんなり通った子が実は暴れん坊で入学してすぐ胸倉をつかまれたりしたこともあった。「こんな子だけど受け入れをどうしようか」などと相談されていたら、その子もだめだったろう。やはり逃げられない状況を作ることからしか始まらない。
武内 暁さん:56歳。次女が28歳。3年しか生きられないと宣告されたダウン症の娘が、無認可保育所で他の子ども達の行動を見てトイレに行くことを覚えた。みんなの中で育ち合うことができるようにと公立保育所の入所運動をやり、近所の小学校・中学校に通わせた。中学ではクラブ活動で音楽部。NHK合唱コンクールに出たとき、先生は本番で娘をはずすことを考えていた。娘は敏感に察したかのように、会場でトイレにこもった。クラブの仲間が、練習で一緒にやってきたんだから本番も一緒にと主張し、彼女をトイレから連れ出し、一緒に参加した。メーデーの日、娘は学校を抜け出し花火の上がる会場へ向かっていた。親に心配かけないようにと、学校あげて探し回り、市にも連絡した。防災放送を聞いて初めて娘がいなくなったことを親が知った。さまざまな出来事があり、最初に担任した先生は「初恋の思い出のよう」と語る。親も有名人になったので、帰りかけに駅前で焼き鳥で呑むのもできなくなったほど。そして当然のように地元の与野高校定時制を受けたが不合格になってしまった。発表を娘と見に行ったとき、抗議行動に備えてのバリケードのように10人ほどの教員たちが並んでいた。娘は自分の番号がないことを確認した後、教員たちの群れに向かって深々とおじぎをし、そしてくるっと向きを変えて家に一緒に帰った。いまもその高校の前を通るのを娘は嫌う。排除された記憶の重さ。そのことを太田尭先生に話したら、「それはミーちゃんの教養ですね」と言われた。高校は行けなかったが、自主夜間中学に行き、さまざまな人と出会った。「アンニョンハシムニカ」といつのまにかしゃべっている。在日の人と友達になったから。「アスタマニャーナ」とか言うので、何を言ってるんだろうと家族がわからなかったことも。たしかに彼女のこだわりには、教養・文化が潜んでいる。そのこだわりをそのままに受け入れて一緒に生きる「親バカ」に徹することが地域を拓くのではないかと考えている。
社団・ノーマライゼーション・セミナーUより A
つい昨日まで子どもだった田中亨周さんは、いま東洋大学の学生。小・中・高時代の自分と友達との関係をふりかえってもらいました。入間のどろんこの会の小川明子さんは、40年前の自分の子ども時代にもふれながら、養護学校という障害児と大人だけの場の中で、さらに細かく分けられてゆくことを阻み、親達も一緒に地域へ出てゆこうという試み等について語りました。
長年児童相談所でケースワーカーをしている門平さんは、社会の差別構造が深まる中で、より大きい力をもった大人がより力の弱い子どもにその力を向けたのが「虐待」と言い切ります。子どもそのものは変わっていないけれど、環境そのものが大きく変わったことがマスコミや特定の専門家の目からは何らかの原因で子どもが凶悪化したかのように映るのだと語っていました。
田中亨周さん:小学校入学のときは歩いていたが、小3から車椅子になった。校長は「みんなと同じ中学に行くのがとうぜん」という考えで、教委に働きかけてくれて、中学から介助員が付いた。小・中は車椅子だからどうこうということはなく、ごく自然なつきあいだった。高校からは介助制度がなく、2ケ月は母親が付いた。その後狭山市で新しく制度ができ介助者が付くようになった。介助を入れたことで頼ってしまい、クラスの友達との人間関係がうまくいかなかったと思う。だから、大学では学生に介助をお願いすることにした。介助に入ってもらったことがきっかけで、福祉サークルに入った。いろいろな障害者と遊びに行くサークル。周りに手を借りながら自分自身で行動するようになってきた。これまでになるには親の協力が欠かせなかったといま思う。
小川明子さん:5年生のある日、同級のまりちゃんが来なくなった。最近その妹さんから電話があり、「私のために施設に入ってくれてありがたかった」と泣いていた。昔からこんなことあったんだと思う。養護学校では、勉強する集団、訓練の集団、寝たきりの集団に分けて教育する。分けられてきてせっかく出会ったんだからもう分けるのやめようと大きなクラスでやっていた教員に誘われ、「個別のよさは捨てても一緒に」とやってみた。実際は個別でやると5 分もたない子も一緒にやるとやれる。そのほか、養護は絵本が支給されるが、そのほかに親達に普通の教科書を買ってもらったり、親たちも一緒に電車で池袋に出かけてみたり、居住地交流に取り組んだりした。でも、残念ながら、とんでもないという教員が多い。また経済的・社会的なことを背景に家庭の状況が子ども達を分けられた場に追いやってゆく。
門平公夫さん:子ども達はいまの現実の中で育っており、どんな場で育っているのか、生活の中でどんな人とどんなかかわりをしているのかを見据えることが大切だ。「虐待」がクローズアップされる前には「学校」が問題視されていたが、それもうやむやにされたままで、今は「家庭」が問題視されている。専門家の狭い回路に社会の問題をおしこめようとすることにより、「虐待」とか「子どもの事件」はどうしようもない問題であるかのようにみなされてしまう。状況の中で親の苦しみとして出てきたのが「虐待」。子どもの苦しみとして出てきたのが「子どもの事件」。それを「家族の病理」とか言って、専門家しかかかわれないかのような扱いをしている。しかし、対症療法のごく一部分しかやれてないのが現実だ。おかしいことはおかしい、いいことはいいとちゃんといえる関係がどんなに大事かと、あらためて思う。