いま開かれている通常国会に、厚生労働省は「障害者自立支援法」を上程しています。いっぽう、文部科学省は中教審特別支援教育特別委員会の審議を受けて、盲ろう養護学校を特別支援学校に変え、通常学級に6%(埼玉県のアンケート調査では10.5%)いると見込んでいるLD、ADHD、高機能自閉症としてくくられた子ども達への「特別支援教育」を実施するための法改正を準備中といわれています(このほど国がまとめた障害者白書では、身体・知的・精紳の3障害を合わせたすべての障害児・者の総数が5%と発表されています。このことを考えても、上記の6%とか10.5%という数字がいかに大きいかがわかるでしょう。)。この二つの動きの関連は…… |
「弱者対策」から「社会=国家対策」へ「障害者自立支援法」のポイントは、「少数の弱者をどうするか対策」という色合いの濃かった3障害別の各福祉法にもとづくこれまでの福祉に対し、いわば「社会をどうするか対策」として、、「自立」・「社会貢献」を基準にした金のかけかたに変えてゆこうというもので、とうぜん3 障害共通になります。すなわち、これまでは障害の種別・程度を目安にしてきたためゴチャゴチャにまざっていた、「労働能力」や「要介護度」の異なる人々を、はっきり区分けして金をかけ、訓練の効果判定に応じた金の出し方にしてゆこうということ。ここで「社会貢献」というのは基本的に「就労」を指しており、その「社会」とは「生産」とか「国家」と言い換えることができます。
地域解体のデザイン「障害者自立支援法」は、いま現実にそこここに残っている「いろんな人がゴチャゴチャと一緒にいる社会」、「迷惑を掛け合いながら生きている社会」を解体してゆこうとする内容をもっており、無関心でいるわけにはゆきません。障害者団体の反応はさまざまですが、たんに負担金が増えるといったレベルではないことをおさえておく必要があります。
特殊教育のあやまち再生産ふりかえってみれば、子ども達については、従来から障害の種別・程度別ではあれ「自立」・「就労」を目標として、そのために場を分けてのきめこまかい教育が積み重ねられてきました。現在の養護学校ではクラスや学年をこえて、各自がマンツーマンに近い体制で別々の学習をしているといった状況も珍しくありません。進路指導担当の教員の事業所開拓の努力も大変なものです。しかし、その結果は、養護学校が義務化された79年当時と比べ、特殊学級・知的障害養護学校高等部をあわせた一般就労者の数は半分に減り、福祉施設に行く卒業生の数が比較にならないほど膨れ上がっているのです。障害のある子ども達から分け隔てられてきた地域社会は、大人になって社会参加を求める障害者たちとどう向き合うべきかという手立てを持てなかったといえます。これを考えれば、「障害者自立支援法」の行く末は明らかです。
やはり危うい特別支援教育そんな特殊教育がいま「特別支援教育」として再生利用されようとしています。「軽度発達障害児」としてくくられた子ども達にやっと光がさしてきたと評価する人がいますが、それはちがいます。特殊教育自体がそもそも経済界の要求に応え、高度成長を支える労働力になりそうにない子ども達が他の子の足をひっぱらないようにという目的で整備されてきました。「特別支援教育」では、同じ目的を、これまでゴチャゴチャと一緒にいた通常学級の子ども達全体に及ぼそうということです。いま現実にそこここに残っている「いろんな人がゴチャゴチャと一緒にいる社会」、「迷惑を掛け合いながら生きている社会」をなくしてゆこうとする点で、まさに「障害者自立支援法」と一致します。
不安を友として生き合おう埼玉県特別支援教育振興協議会の最終報告のタイトルは、「〜障害のある子もない子も 21世紀を やさしく・たくましく 生きぬく『生きる力』を育むために〜」となっています。地域社会がますます分けられてゆく中、大人も子供も孤立感にさいなまれ、確かなものを手探りしながら生きているいま、夜めざめて「自分はなにをやってきたのか」、「これから生きて行けるのか」と不安でおしつぶされそうになるのは当然です。そんな不安を抱えながら、ぶつかり、すれちがいつつ、地域・学校・職場で生きること以外に、「生きぬくための『生きる力』」などありえません。あたかも「生きぬくための『生きる力』」という何かがあり、その力を育むための「支援」があるかのように思わせてしまうところに、「障害者自立支援法」や「特別支援教育」の危うさがあります。
この二つのグラフは、埼玉県教育局が毎年出している資料を集計して、山下が作成したものです。1979年の養護学校義務化によって養護学校が整備されてゆくにしたがって、就労が減り、施設への道が作られてゆきます。