11月20日(日)越谷の人を中心にしたTOKOおしゃべり会を、北部市民会館で開きました。就学を前にした親子から大人の障害者まで、いろんな立場の人達が30数人集まりました。司会は地元の三上さん。はじめの挨拶は白倉さん。
自己紹介の後、本号4ページに載っているAさん、Cさんの手記をもとに、本人と他の参加者が意見や体験を活発に語り合いました(下記)。Dさんにも手記の補足説明をしていただきましたが、時間切れで意見交換はできず、お昼の時間に個別に数人で話していました。
昼食後は、資料説明のほか、大人の障害者からの体験報告がなされました。
野外とちがいお父さんやきょうだいの参加が少なかったですが、話し合いは深まりました。
意見交換1:介助・サポートはどうなっているか
A さんから
今まで普通の子供と一緒に育って成長もあった。これからも可能性を信じて普通学級に決めた。校長と話をする場はこれから。教育委員会とは話をした。普通に行くことは大変だががんばってといわれた。小学校は一緒に勉強するのが苦手な子のための通級クラスはあるが、知的な障害児のためのサポートはない。特別なサポートは予算がないから覚悟してと。楽しく過してくれればと、勉強は家でと思っているが、うちの子のような知的障害の子にも何かあればと思う。 |
司会 介助の問題、サポートの問題、ほかのみなさんはどうですか。○ 越谷市だが、補助教員は小1 年からついた。週2 から3 回。移動のときの問題、安全面から。最初は予算がないといわれたが、父親と一緒にカセットテープまで持ち込んで教育委員会と話し合って。学年上がるたびに話さなければならないと思ったが、2 年に上がるときに話しがあっただけ。補助の先生といると安心だが、周りに常に大人がいることになる。いないときのほうが子どもとのかかわりがスムーズに行っている気もする。友達関係のことを考えるとべったりはどうかと思う。
● 春日部市は考え方が違う。1 年のときは補助の先生がいなくて大変だった。親が付き添っていたが、体調を悪くしてボランティアを自分で探した。でもボランティアの大人がつくと、教師に負担になるので断るようにと言われた。教育委員会に何とかしてくれと言ったが、文教大の学生が就くようになった。が、議会でも予算がないと言われた。2 年になって校長と担任が異動になって新しい先生が協力的。特別支援教育コーディネーター制度ができて、担任がそれになってから全く見方が変わった。学校全体で受け止めるという形に。トイレの手伝いが必要だが、ヘルパー資格のある人を派遣し、体育の時間を合わせるなど融通も利かせる。親の負担は楽になった。子どもも親がいないので楽しい。べったりつかずに遠くから見守っているのがいい。来年のことはわからないが、今は楽しい。子どもだけの社会で育つことがある。
司会 介助の問題で他に何か。
○ 支援員がついている。1 日5 時間だけで、朝から午後2 時まで。その後は親が自分で探すしかないが、短い時間なので頼みづらい。小学校のときは2 人、子供同士のかかわりを大切にしたいからべったりでなくお願いしているが、今は時間だけでなく、安全面でべったりのつき方。もう少し離れてと思う。大人が見ると危険と判断して近づけないが、子供はかかわっていく中で限度を身に付けていく。担任も自分がしなければとなるが、学年だけでなくみんなで支えてくれれば乗り切っていける。問題はおきると思うが、そういう体制があれば、子供たち同士、周りで乗り切る力を引き出してくれる。
司会 うちの娘は入学したとき2 歳くらいの体で、階段も這って上るくらい。付き添いをつけずに2 年。担任は壮絶な戦いだったと思う。うんこまみれになって、それでも先生は授業をしなければいけないから、友達が5 人がかりでうんこがつかないように麻衣を職員室に連れて行ったとか。3 年になるときに付き添いをつけてほしいと校長から申し出があった。そのとき、友達関係を崩すようなつき方はやめて欲しいといった。ついた先生は週3で年配の先生。あとの3 日は若い先生や文教大の4 年生。3 年から6 年までで、その中の一人は正規の教師ではなかったが、結局娘を通して立派な先生になった。つながりは今も続いている。私は楽をさせてもらったと思う。
○ 6 年の2 学期から車椅子になった。小学校のときは担任だけ。親がおんぶして4 階まで階段を上ったが。中学校は朝から午後2 時まで補助員。トイレは教頭や担任もやった。今は高校だが親がずっとついている。義務教育でないから付けられないと。昨年、おととしと私が入院しなければならなくなり、支援費を使った。高校はエレベーターがついているし、電動を使うようになったので移動は楽。トイレだけのために自分が行くことになっている。ついた人は介助が仕事で子どもの関係まで考えてくれない問題はあった。
● 小、中学校で車椅子の指導を私たちボランティアがしている。中1〜2 年ではトイレもここまでと見せている。いろいろ聞くと障害者が入っていない学校はボランティアが指導する。障害者に対する理解は、そこにそういう子どもがいれば協力する子どもも出てくる。子どもと先生と学校全体で関わってもらうということをお願いする。人に任せる前に自分がやっていく。他の保護者も見ている。学校にお任せして、何か起きてから一緒に考えることが大事。勉強のことも、うちの娘は38 歳になってもまだ計算できない。でも、周囲が育ててくれた。まず親が体力をつけていかなければ。
○ 中2年。最初は勉強がんばらなければと本人も思っていたが、2 年になってだんだんに学校の様子が分かってきて暴れだした。担任の先生と連絡を取り合って対策を練った。
意見交換2:学校、担任とのコミュニケーションは?
C さんから
学区の小学校の通常学級に決めた。子どもがひとりだから学校の様子も分からず、教育委員会や校長と話し、近所の人に話を聞いたりしている。何をしていいか分からず、うちの学校は特学もないので、違う学校だが同じダウン症の子の親に話を聞いている。漠然とした不安がある。学習面は今でも家で公文の教材を使ったりしている。学校は担任の先生とはぎりぎりにならないと話ができないと言われている。通常学級の30何人かの一人として扱うと言われている。学校にどこまで言っていっていいのかわからない。 |
○ 友達は障害があってもなくてもいじめはある。その中から関係ができる。子どもの数が少なくなっている。今から悩んでいるのでなく、様子を見て、これから問題出てきてからでいい。● 子どもが小学校のとき、担任が変わるたびに手紙を書いた。主人と校長にあいさつも行った。あと、役員もした。
○ 私は先生ではなく子どもたちに手紙を書いた。
B 以前アドバイスを受け、保育園で役員もやったが、子どもがくっついて離れないので役立たずで。
● それで大変さが他の保護者に分かる。
司会 役員もせず、手紙も書かずに来た。毎日一緒に過しているのは子どもたち。お子さんは大丈夫。不安な気持ちは分かる。私も入学式前は眠れないときもあった。でも子どもの世界は大人が思っている以上のものもある。いじめる、からかう子もいるが、うちはいすにも座れない子どもで、参観日の他のお母さんの手を握ったりと大変だったが、家族もいやな目に会わずに来た。
○ お子さんがひとりだと心配。どの子も問題あるがひとりだと余計不安だと思う。障害児だけじゃなくみんなそうなんだと。クラス懇談会に出て自分の気持ちを伝えることで分かっていってもらう。子どもの世界だから。
● 私も入学前に同じことを言われた。クラスの中の一人と扱うと担任に言われた。上の子だから不安だった。でもどの子も一緒でその中の一人。できないことがあるから手伝いは必要だから、それは学校全体で受け止めるという以上、学校が考えること。甘やかすのでなく、全体の中の一人と受け止めてくれたのは、入ってから分かった。子どもも一緒にいる中で付き合い方を学んでいく。トラブルはあっても子供の中で解決していく。
○ わらじの中で妖怪団というのをやっている。一人暮らしの男性で普通学級でずっとやって来て大人になって、今は列車マニア。もうひとりはあまり動けないが、かかとでパソコンを操作しメールを送っている。てんかん発作があって知的障害の人、ダウン症だが仕切るのが好きな人。これだけばらばらな人が一緒にいると、例えば会議に出るといらいらする人、食事でファミレスに入っても大きな声を出すこともある。何かやるとき、ひとりひとりに合わせることはできない。引きずっていくことも。30 何人かの一人はあたりまえ。でもその中からこぼさないでほしい、ということは言っていく。30 何人かの一人はたぶん大人になってもついて回る。お母さんが気持ちを大きくして。
司会 入学したとき先生が疲れているようなので訊いたら、娘のことだけじゃなく他の子もみんな大変なんだと。養護学校とか専門的なところに行けば伸びるかと思うけど、娘が中学から養護に行ったとき、通園施設で一緒だったほかの子供(初めから養護に入っていた子)も何も変わっていなかった。
意見交換3:かって子どもだった私から
吉田久美子 : 私は物心ついたときから養護学校にいた。後で親から聞いたが、通うのも大変だからと養護学校になった。成人式のときに地域に友達がいないことを改めて思い知った。今は袋山で一人暮らし。デイケアパタパタで非常勤職員として働いているが、そこで今年養護学校を卒業して通所するようになった女の子がいる。自分が養護学校のときは一緒に勉強していたが、今は勉強する班と作業する班に分けられていると聞いて、養護学校の中でもさらに分けられているのかと驚いた。子どもは勝手に育つ部分があるが、環境は大事かなと思う。友の : 私は施設で育って外泊のときだけ外に出た。それも毎週ではなくてみんな一斉に帰るときの外泊だけ。ほとんど病院か施設、それからいろんな養護学校に行った。ひとつの学校にいたというイメージはない。最後が越谷養護学校。卒業して同級生がわらじの会にいて、誘われて活動に参加したのがわらじの会に来るきっかけ。卒業後家で暮らしたことがなかったので、何年かでも暮らしたいとあんちゃんにわがままを言って、家で暮らして3 年間。3 年後にわらじの会にきた。その間家から出たのは近所のお店に1 回行っただけ。隣のおじさんが車椅子を押して行ってくれた。わらじの会に来て、道を覚えられなくて迷子になりまくった。地図を渡されても読めなくて、地図があっても無駄だといわれて、生活ホーム・オエヴィスから谷中耳鼻科の黄色い部屋まで2 時間かかった。昨日やっと生活ホームを出て、アパートで一人暮らしを始めるための引越しをした。
木村春枝 : 40 年位前の話で、家の近くには養護学校はなくて、小学校も2 キロくらい離れていた。だから年齢がきたら普通に地元の小学校に入った。行くのがあたりまえだった。通学班で他の子供と一緒に行ったが、歩くのが遅くて遅刻しちゃいけないと、結局親が送り迎え。学校の中で困ることは無かった。修学旅行は行っていない。付き添いの問題とか、先生も望まなかったのかも。中学ももっと遠いところで送り迎え。学校の中では移動が多くて、自然に面倒見てくれる子どもが2,3 人できた。高校はもっと遠くて行けなかったので出ていない。近所に工場があって、そこから内職をもらって仕事をしていた。その後、国リハに行って免許を取って就職もした。
さいごに司会から :
司会 障害児の親はたいしたことがなくても悩む。こういうところで話すことで悩みが晴れたりする。若いお母さんたちもこういうつながりを付けていただけたらと思う。
受付をつとめてくださった伊藤さん(右)、白倉さん、ごくろうさまでした。