養護学校義務化後4半世紀――社会はこんなにも分け隔てられた

8.30,31総合県交渉で明らかになった埼玉の現実

埼玉障害者市民ネットワークと埼玉県各部局の交渉の中から

「総合県交渉」とは「人は特殊教育と福祉によって生きるにあらず」というキャッチフレーズで、1989年から続けられている公開シンポジウム的な対県交渉。県内各地の共育・共生、自立生活、共働・反差別などの活動をしている団体・個人が集まって要望書を作り、2日間にわたり県と話し合う。とかく障害者団体というと「障害の特性を理解せよ」とか「その子に合った教育を」、「福祉拡充」が通り相場。それに対し、ここでは通常学級、雇用施策、住宅施策、街づくりそのものを共に生きる視点でと提案する。福祉等の特別な分野をこえたさまざまな部局との交渉という意味で「総合」なのだ。

 今年の総合県交渉では、左のグラフに見られるように、「職業指導」を目玉にしてきた養護学校高等部が充実したことで、特殊学級も含む特殊教育卒業後の就職者総数は、半数に減ってしまったという衝撃的な事実が明らかになりました。その裏では、高等部卒業後の進路はますます福祉施設に集中しています。かって特殊学級の担任たちが身近な地域を回り職場開拓をしてきたノウハウは、広域を対象とする養護学校では失われざるをえなかったからです。
 小さなうちから障害を克服・軽減するための個別指導を強めてきた結果は、皮肉にも卒業生達がいっそう社会から分け隔てられただけでした。
 障害のある人々やその家族等は、分けられた世界になじむことによって、ご近所や通りがかりの障害のない人々とぶつかったり手を借りたりしながら地域で生きてゆく体験を身につける機会を奪われ、自分達を「弱者」と感じ、特別な保障によらない限り生きてゆけないと思い込んでいきます。
 同時に、そのことによって、障害のない人々は、障害のある人々を共に生きる隣人として実感する機会を奪われてきました。基本的には、福祉の対象者として自分ではなく資格をもった専門家だけが正しくかかわることのできる存在なんだという意識が社会に定着しました。
 1979年の養護学校義務化の年に養護学校に入学した子供たちが12年を経て高等部を卒業する頃から、地域の中に障害者と援助者だけからなる福祉の世界が拡大してゆきます。日本経済はバブルがはじけ、リストラが進行しますが、福祉は逆にバブルというべき様相となり、2003年の支援費制度で頂点に達します。
 いっぽう、特殊教育卒業者の就職は減りますが、社会全体としては知的障害者の雇用は大きく進みます。それは雇用促進法が改正され、知的障害者を雇用率に算定し、トライアル雇用や短時間労働、ジョブコーチなど多くの支援策を作ったことによっています。これは「雇用のシルバーシート」といえましょう。その反面、かってのような地縁・血縁を生かした地域での就労や自治体等での知的障害者職員採用はまるで進んでいません。
 また、「バリアフリー」が流行語となり、駅にエレベーターができましたが、階段しかなかったころ乗客に手を借りて車いすで移動したノウハウが失われ、バリアフリー化されていない地域や職場には車いす使用者は前よりも見かけられません。公営住宅に身体だけでなく知的・精神の障害者も単身入居できることになりましたが、多くの自治体では「介助を要する者は不可」というまちがった説明を付けています。住宅担当者は介助のイメージを知りません。
 ときあたかも障害者自立支援法が施行され、福祉バブルの時代に終止符が打たれようとしており、総合県交渉でも各地から切実な訴えがあいつぎました。ただ支援費制度に戻れというのではありません。「自立」・「就労」を特別な支援の問題として分けてきた過ちを踏まえ、通常学級、雇用施策、住宅施策、街づくりそのものを共に生きる視点で見直すべきなのです。