準備にかかわった皆さんの一言
今回は、いま学校に通っているお子さんをもつ方をはじめ、さまざまな人たちに準備をしていただきました。
清水泰代(しみずやすよ)
去年は大袋北小の普通学級に在籍し、今年から大袋小の特学に転校しました。近所の子たちが、二男の存在をわかっていてくれるのは、去年同じ学校に行っていたからです。 転校してしまって、これからどうやってかかわりを持っていくか考えてしまうのですが・・・学校以外で接点を持つのは難しいです。 どの子も地域の学校で一緒に生活する大切さを感じています。 |
こちらは親・教員などが中心 |
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清家亜由(せいけあゆ)
草加市立稲荷小学校教員。埼玉大学教育学部総合教育科学学科卒業教員4年目。現在3年生担任教室は、いろんな子がいて当たり前です。だからこそ子どもたちが高めあって大事なものを学ぶと思っています。 |
子ども達は障害者メンバーや介助者等と街の探検 |
そこにいること
太田妃早子(おおたひさこ)
こんにちは。越谷に住んでいます太田妃早子です。子供は小学校2年生で、ダウン症の男の子です。
我が家では赤ちゃんの頃から、できる限り普通の子の中で!! という思いで育ててきました。
2才から週1回就園前の子のための集まりに、子供だけで幼稚園へ行き、みんなと遊び、お弁当を食べ、3才からは保育所へ入所しました。そして、去年4月、学区の小学校普通級へ入学し、毎日元気に楽しく通っています。
いろいろ悩みは出てきますが、子供がお友達の中でとても楽しそうにしていること、そこにいることが本人もまわりの子供たちも普通であたりまえと思ってくれていること、そして何よりみんなからの刺激を受けすごく成長した姿を見ると、とてもうれしく、感動と感激の日々を送っています。
藤ヶ谷理江(ふじがやりえ)
先生やお友達に恵まれ、マイペースでフリーダムなスクールライフをエンジョイ(?)しています。 また2年ほど前、母娘で「藤華連春日部ソーラン」に入会しました。毎週土曜日の午後、よさこいソーランで汗を流しています。(ただし!母のダイエット目的はまったく達成されていません…)今月の21日(日)、さいたまスタジアムでおこなわれる「よさこいinさいたま」に出場予定です!
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樋上秀〈ひがみひでし〉
64年は東京オリンピック開催、東海道新幹線開通の年。母親の郷である広島県福山市で仮死状態の逆児で出生。脳性小児マヒ。 父、母、弟の4人家族87年から越谷でひとり暮らし 89年、母は52歳で他界(テポドンより強い、他人の子も叱る母でした、けっしてキレるではなく叱るです) 趣味旅主に鉄道で日本国中。詩を書く事 66年、春日部市武里団地入居(生粋の団地っ子) 71年、私立あゆみ幼稚園入園(鈴木園長ご存命なのかなぁ樋上は現在は生きております) 72年、市立谷中小学校入学(一年遅れで入学) 78年、市立谷原中学校入学 81年、中学卒業を機にわらじの会に(初の作業は橋本画伯とバザ−の為の捨て看板拾い) 母の信念は、車依存社会はダメ、歩けの精神。テレビ、ク−ラ−、タバコを嫌う事でした。 息子二人は個人的事情により愛煙家。僕も弟もセブンスタ−を一日一箱あまり。テレビは見ないしク−ラ−の無い生活です。けど当然ではあるのだがタバコだけ槍玉になっているのには疑問。車依存社会には非力でも脱却に向けて力を注いで行こうと感じております。 |
「はい、ここからは地域で〜」
原田真弓(はらだまゆみ)
越谷市在住。親より大きくなった息子は、養護学校高等部2年生。「お子さんは障害児です。もう普通には幼稚園も学校も行けませんよ。」「とにかく集団に入れなさい。」そんな言葉から始まった障害児人生。でも、集団の中では過ごせなかったし、幼稚園も学校も普通に行けたよ!!
あれは、みのり学園からの帰り道、ちょっと仲良くなったお母さんと話をしていたら、「障害児でも普通学級に行けるよ!そういう人達が集まっておしゃべり会をやってるから行ってみる?」と言われ、オエヴィスでやっていたおしゃべり会に参加するようになりました。「市役所の地下でもTOKOって言うおしゃべり会をやってるから行ってみたら?」と教えられ、ドキドキしながらドアを入ったのが10数年前でした。参加したり、しなかったりでしたが、最近はずいぶん参加するようになったかな?(^^;
こんな繋がりの中で息子は、みのり学園から普通の私立幼稚園へ行き、小学校も校区の普通学級で6年間過ごしました。そのまま校区の中学校へ・・・・と思っていたのですが、考える事もあり学区外の特学へ入りました。そして現在は養護学校。全部経験してきました。いい事も嫌な事も経験しましたが、普通学級は楽しかったですよ〜 でも、特学や養護学校にいると「守られた生活」で楽ですが、卒業後を考えるとちょっと怖いかな〜? 「はい、ここからは地域で〜」とポンと放り出されたって、どうしたらいいの〜?
竹迫和子(たけさこかずこ)
一方、障害児の高校入学についてはいまだに定員内不合格にされたり、高等養護学校や高校内分校ができて分け続けられている。「どの子も地域の公立高校へ」という連絡会の名前はなんと過激で根本的かとあらためて思う。私立じゃなくて公立、どの子もなんて余計なお世話と感じる人もあるかも。障害のある子だけでなく、なかなか受け止められない子こそ公教育で受け入れていかなければならないという考え方に立っている。教育をめぐる状況は逆に進みつつあるが、だからこそそのことをだいじにしたいと思う。 |
あたりまえに近所の学校・高校で子どもと 共に生きてきた体験を語る中村順子さん |
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養護から地元中学へ、そして就職、結婚
日吉孝子(ひよしたかこ)
・1954年北海道生まれ
・5歳のとき上京し武蔵野日赤病院のリハビリ施設に入所
・日赤の主治医の勧めで一年遅れで光明養護学校に入学、入寮
・小学校4年の時に、はからずも家の裏が小学校、歩いて50Omほどの所に中学校という立地の所に引っ越す。これを機に長年家から離れた生活を送っていて家族と暮らしたかった事もあり、また寮の中・高等部の先輩たちから養護学校卒の就職は難しいと聞かされていたので、それまでは考えた事もなかった地元のに通いたい!という,気持ちに火がついた。
・地元の小学校への転校を希望したが、両親(養護学校にいれば卒業時に障害者を対象とする求人が養護学校ならくる可能性が高いという理由で)も担任(普通の学校でやって行くには重度すぎるという理由で)も反対したが諦められず、5年生の時に両親を説得し転校希望を打診したが、わざわざ苦労しに来ることはないと校長に断られた。
・再度中学入学時にチャレンジ。何度かの話し合いの結果、地元中学への入学が認められた。
・高校、大学に入学。大学は1年で中退。
・障害者の職業訓練校に1年半在籍後、コンピュータのリース会社に就職したが人間関係で悩み2年半で退職。その後、2社に転職。
・結婚・出産・子育てのため専業主婦として10年を過ごす
・再就職し、8年間勤務。離職1半半後、車椅子の生活となる。
・5年前に離婚し、群馬から現在の越谷に・・・