埼玉県東松山市は07年5月、障がいをもつ子どもたちが普通学級と特別支援学校(旧盲・ろう・養護学校)のどちらに進むのか、進路を実質的に振り分けしている就学指導委員会を廃止し、2008年度から本人や保護者が希望する学校へ全員入学させる方針を決定した。本人が希望する学校への入学を実施している地域は他にもあるが、公式な廃止は全国で初めて。マスコミも取り上げ、大きな反響を呼んだ。
就学指導と称して実質的に障がい児を分離・排除してきたこれまでの日本の教育制度は「差別や偏見を助長させる」と批判されてきたが、国の制度の厚い壁に阻まれて実現しなかった。埼玉支局では、新年号企画としてこの問題をとりあげ、東松山市長の坂本祐之輔さん、教育の欠格条項をなくす会の木村俊彦さん、部落解放同盟埼玉県連委員長の片岡明幸さんの鼎談を企画した。1 共に暮らしを分かち合う街を
片岡 東松山市が就学指導委員会を廃止したことがマスコミで大きく取りあげられました。廃止に踏み切った理由は。
市長 私が市長になってから14年経ちますが、障がいがある人もない人も共に暮らしを分かち合える社会、もし障がいがあっても自分の住んでいる街で安心して自立して暮らしていける社会、ノーマライゼーションのまちづくりをすべての政策の根幹に据えて来ました。そのために365日配食サービスや24時間ホームヘルプなど福祉の先駆けをやってきた。しかし社会の中にどうしても障がいのある人を理解出来ない壁がある。その原因を考えると、一番の源(みなもと)は、就学指導委員会だと考えるようになりました。小学校に入る段階で障がいのある子どもとない子どもを分けてきた。そのことが隔たりをつくっている一番大きな原因だと考えるようになりました。
片岡 障がい者問題の核心が、学校を分けるところにある、と。
市長 そうです。私はいつも言っているのですが、自分の家庭の中に障がいのある子どもがいたとして、その子と一緒に食事をしないのか、その子と一緒に風呂に入らないのか、一緒に寝ないのか。そんなことないわけです。皆、かわいい子どもですから一緒に暮らしている。それが小学校に入る段階で、兄弟とは別の学校に通う。身体が元気な兄弟はすぐ近くの学校に通い、身体の大変な子どもが、バスで遠い養護学校などに通う、これはどう考えてもおかしい。家族がひとつ屋根の下で暮らすことができるならば、東松山市はここで生まれ育った市民は、東松山市の中で共に生き、お互いに助け合って暮らしていく、そういう思いやりの気持ちをもつことが、障害のある人に対する差別や偏見を根本からなくすことになる。そのように考えてきました。
片岡 市長は、若い頃から福祉に関心を持っていたのですか。
市長 いや、32才で市会議員に当選するまではまったく障がい者との接点はありませんでした。
片岡 それがなぜ障がい者問題に
市長 たまたま20年ほど前に、「信楽(しがらき)から吹く風」という映画を見たのです。90人ほどの知的障がい者が信楽の窯に従事している映画ですが、障がい者が街に溶け込んでいるというよりは、街が障がい者にとけこんでいるという映画だったのです。その映画を見て涙が止まりませんでした。もし自分の子どもが障がい者であったなら親として何ができるのだろうと、市会議員として何が出来るのだろうと考えた訳です。それが原点です。その時以来、障害者の問題に取り組むようになったのです。
片岡 木村さんは、今回の就学指導委員会廃止をどう評価しますか。
木村 就学指導委員会を公然と廃止したのは、東松山市が初めてです。
大阪などで、実質的に希望していない人は就学指導委員会にかけないということをやっているところはありますが、文部科学省などとの関係で公然とはやっていなかったのです。
私たちはこれまで30年余り、就学指導委員会の問題、分けることの間違いをずっと指摘してきました。障がいを理由に分けることは明らかな差別だと。しかし、それはなかなか理解してもらえなかった。今回、東松山市が決断したことで、就学指導委員会の何が問題なのか、はっきり浮き彫りになりました。その意味で東松山市の決断は画期的だと評価しています。
片岡 木村さんは、いつごろから取り組んできたのですか。
木村 私は以前、養護学校に勤務していました。養護学校に居て、内部で就学指導をやる側にいました。何が出来て何が出来ないかを調べて、AとかBとか付けて「あなたは養護学校、あなたは特殊学級」という具合に振り分けていました。その時に、人を分ける権利があるのか、何をもってそんなことが言えるのか、果たしてそのような振り分けが正しいのか、疑問に思うようになりました。
市長 そういう先生がいたことは知らなかった、うれしいですね。養護学校の先生は、そうでない考えの人が多いです。
木村 もう一つは「就学指導委員会は廃止できる」ということを社会に示したことです。教育委員会はこれまで一貫して『就学指導委員会は法律上、廃止できない』と言ってきましたが、就学事務は法律的にも自治事務なのだから廃止できないわけはない。それを実践的に明らかにした。この点で大変意義のある決断だったと思います。2 分けること自体がそもそも差別
片岡 指導委員会廃止に対しては、さまざまな反対意見もありましたが、反対の理由は。
市長 反対意見は3つありました。まず第一は、養護学校の入学を希望する子どもには、就学指導委員会の意見書が必要とされています。指導委を廃止すると、養護学校の入学希望者が入学できなくなるというものです。第2は、指導委員会の適切な判断がなければ、結果として子どもが不幸な選択をすることになってしまう。第3は、介助員や設備の面で膨大な予算が必要になって対応できなくなる、というものでした。
片岡 反対意見にはどう対応したのですか。
市長 第1の点は、「専門家の意見聴取の場があればいい」ということで決着しました。第2の点は、親や本人の希望を無視して専門家だけで決定すること自体に問題があった。そこで、専門家の情報提供は必要だけれども、それを得て最終的に判断するのは保護者だ、ということにしました。第3は、予算は無限ではないけれど、現在でも市は単独で33人の介助員を配置しています。来年は50人にする予定です。財政上の問題はもちろんありますが、問題は建物や設備ではないのです。介助員の支援やこどもたちの助け合いなどマンパワーで補いたいと思います。
片岡 現場の教員は、必ずしも賛成ではなかったと聞いていますが。
市長 教員の方は全県的に異動がありますから、東松山に来て、こんなにクラスに障がい児がいて大丈夫なのか。確かに心配する声がありました。そうじゃなくても荒れるクラスもあったりする中で教育委員会としてはとてもここまで対応できないという意見が強かった。教員の多くは「やることは賛成だ。しかし実際に配属されたときに対応できるか不安だ」という声が強かったです。
片岡 「養護学校に行く方が子どもの発達にとっていいんだ」という意見も根強くありましたが。
市長 そこは一番難しいところです。障がいの程度によって、また学校側がどこまで対応できるのか、という問題とも重なって、一律には言えないのですが、例えば、障がいのためにまったく動けないし、話せない子がいるのですが、その子はクラスの友だちの中で生き生きとしています。家にいる時とはまったくちがう。その子はまちがいなく学校で、友だちの中で成長しています。だから行く行かないは、最終的にはその子や親が判断することだと思います。それを、その子の幸せのためだと、他人が勝手に決めることが問題なのです。いま市では、入学を控えて最初から教室を見てもらって、また養護学校を見てもらって、きちんと情報を提供したうえで判断してもらっています。
片岡 もちろん親の中には、養護学校を選択する人もいますね。
市長 もちろんいます。小学校高学年や中学校になってから養護学校に通う子もいます。
木村 反対意見で一番多いのは、「ちゃんとした受け入れ態勢もないのに、どんどん入れてどうするんだ」というものです。しかし一番大きな問題は、なぜ受け入れ態勢が取れてこなかったのか、その点にあるのです。就学指導委で振り分けて「障がいのある子は養護学校だ」と分離し、普通学級を希望する子に対してはまったく何も支援しない。設備や介助員などの支援をまったく考えない。そうしておいて、「受け入れ態勢が出来ていない」というのは、あまりにもひどい話ではないですか。
片岡 受け入れ態勢を作れないような仕組みにしておいて、「受け入れ態勢がないから反対」、それは到底納得できない。その根幹にあるのが就学指導委員会。
木村 法律上、原則分離の今の教育制度の中では障がいのある子は普通学級には「居ない」ことになっています。本来養護学校に行くべき子が、親がわがままを言って普通学級に紛れ込んでいる。その紛れ込んでいる子を「強引に養護学校に移したりはしませんよ」と言ってきたに過ぎない。国の姿勢は。今回の東松山の就学指導委の廃止の意義は「障害のある子は入れない」という、この原則分離教育を根本から問い直した点にあります。
3 差別・偏見助長する現行制度
片岡 どうしてこのような制度になってしまったのですか。
木村 文部省は1961年に「わが国の特殊教育」という方針を発表しました。丁寧な言葉を使ってはいますが、その中で明確に障がいのある子がいると授業が進まない」ということを述べています。その上で、「そういう子にはそういう子の学校を作ることで、教育の指導が容易になり教育効果が上る」とした。これが改正されることなく、今も日本の障害児教育の基本になっています。この考え方の背後には「障がい児は教育に邪魔だ」という発想が潜んでいます。79年に養護学校が義務制になったが、81年に国際障害者年がスタートしたとき、欧米各国は、いわゆるノーマライゼイションに流れを変えていきました。しかし、わが国は79年に養護学校を義務教育にしたばっかりだから、結局分離教育のままで教育のノーマライゼーション化が進まず、教育全体の流れは、分離が前提になったまま進んでしまいました。教育がそうだから、福祉の場合も分けたものになってしまったのです。
市長 その通りだと思います。今の福祉は障がいのある人達は障がい者が通う学校に行って、そこで障がいがある仲間と過ごし、卒業して社会に出た時、行く所がなくてやはり障がい者の施設に入所して生活する。一生、障がい者の中でしか生活出来ないパターンになってしまっています。それがおかしい。その一番の原因は学校が分離され、分けるところにある。もちろん、私は養護学校不要論だとか廃止論ではない。養護学校が果たしてきた役割はあったと思う。しかし、やはり私は障がいのある人も自分の生まれた場所で生活する、家族や近所の人と一緒に暮らすことが大切だと思います。少なくとも東松山ではそのようなまちづくりを目指したい。今回の就学指導委員会の廃止もその重要なひとつだと考えています。
木村 私はデイケア施設をやってきたのですが、そこにはバイク事故など、中途で障がいを持った人も来ます。そういう人の中には障がいを持った途端「、自分の人生が終わってしまった」と、引きこもってしまう人も多い。どうしてそうなるかというと、障がい者として生きていくことがイメージできないからです。障がい者が地域で普通に暮らしている、そういう姿を見てないものだから、いざ自分が障がいを持つと、どのように暮らしたらいいのか分らなくなってしまう。これは高齢者の問題も同じです。社会の中で、また学校で、そういう共生の教育がなされてこなかったから高齢者にも向き合えないのです。
市長 人は最後には必ず障がいをもって死を迎えます。それがいつかというだけであって、障がいは特別なことではない。それが、学校が分けられているために、今のよう事態が生まれてしまいます。
片岡 ところで、「就学指導委を廃止したけれど、かわりに相談調整会議をつくった。何も変わっていないのだ」と言う人がいますが。
木村 それは違います。東松山がよそと決定的に違うのは、「あなたは障がいがあるから入れない」と言う「判定」をやめた」ということ、その意味は大きいです。
片岡 障がいを理由に学校を分けること自体がそもそも差別なんだ、そのことを明確にしたことですね。
木村 県の障害者計画の中でも「障がいを理由に分け隔てられることなく、共に学び育つ」という文章が入っています。それなのに、その「分け隔て」を教育委員会が率先してやってるんです。
市長 おっしゃるように、分けること自体がおかしい。学校を分けてきたことが、障がい者や高齢者をやさしく受け入れられない原因になってます。東松山ではその考えから今回の廃止以前に、すでに就学指導委を相談する場に変え、実質的に分けることをやめています。4 新たな時代へ、埼玉発の運動を
片岡 就学指導委が廃止されたが、今後どのような課題が残っていますか。
市長 これまでもそういう取組みをしてきましたから、就学指導委員会を廃止したからいきなり普通学級に通う子が増え。何か新しい問題が発生するということはありません。今年もすでに相談調整会議をおこなっています。来年春も14人の子どもが小学校へ行くことになっています。東松山の場合は、障がいのある子の8割程度が地元の学校に通います。しかし、課題ということで言うと、一つは自由に選択ができるだけ学校の設備が行き届いているかというと、そうではありません。それから50人もの介助員が一日中その子についているわけですが、そうすると今度はその子に合う介助員と、そうでない人という問題が出てきます。数が多くなれば、どうしてもアルバイト的に参加しようとする人も出てくるでしょう。質の問題も重要です。これまで何年もその子と一緒にいた介助員がやめて、そのあと来る介助員が、それまでの人のようにうまくやっていけるか、そのような問題が発生してきます。
片岡 学校の先生のほうはどうですか。学校の先生が不安を抱えていると言う問題もあります。また財政上の問題は。
市長 もちろん、介助員の予算など財政上の問題は重要ですが、しかし、それより大事なのは先生がその気になっていなければ、いくら施設が整えられていてもダメなんです。ここはぜひ分かって欲しいところです。障がいがある子どもたちにとってだけでなく、その子と一緒に居ることによって子どもたちが変わるんです。子どもたちが成長するのです。教育とは本来そういうものだと思います。
片岡 時代が変わりつつあります。この動きを全国に広めていきたいと思いますが。
木村 東松山だけでなく、すべての地域でこのような動きをつくっていきたい。しかし、国レベルで変えていかない限り、地方の教育委員会サイドから変えていくのは非常に困難です。もう一つは、当事者の問題です。「障がい者が、学校にどっと押しかけてきたら困る」という心配があるようですが、どっと押しかけてくるぐらいの元気があれば、まだ日本は救われると思います。ほとんどの親はあきらめきっている状態です。
もう一つ、福祉にしても介護にしても、一部の専門家が対応するような今の日本のやり方は、完全に行き詰まってます、これからは、みんなが手を貸していく、地域のみんなで助け合う社会にしていかない限り、福祉も介護も立ちゆかなくなります。財政的にもそうです。そういう状態に直面しながらも、変えようとしていません。
それから介助員の問題があります。介助員がつくことで、担任も、まわりも友だちも介助員に任せてしまう。そこも考えなければならない。クラスみんなで支え合っていくなかでの介助員、という関係が大事です。
片岡 最後に一言ずつ。
木村 市長が「障がい者の問題に取り組んできて大きな壁にぶつかった。その最初のボタンの掛け違いが就学指導問題である」と指摘された意味は重要です。福祉もいろんな行き詰まりが出てきており、この後もっと大きな課題が押し寄せてくるというのに、それに対してどう立ち向かっていくのか、ちゃんと議論していない、その議論の核心としてこの指導委廃止の問題があると思います。
市長 障がい者の問題は、教育委員会の就学指導委員会だけの話ではなく、福祉全体のあり方、教育全体のあり方につながっています。「障がいのある人もない人も共に分かち合って暮らす」、私は、それを理念として、これからの住みやすい街づくりを着実に進めていきたい。 (終わり)