❖「わらじの会」(わらじのかい)
1978年3月設立。任意団体。「障害のある人もない人も
共に街に出て生きよう」がモットー。活動の経緯の中で、社会福祉法人や個人事業所をはじめ、さまざまな施設等も作ってきたが、それらと個々人をはらむ会総体のありかたは、常に「誰でもいつでも」、「来た時が会員」という原則を保ち、活動を地域にひらいてきた。 |
◆わらじの会の「夏合宿」―― 暦年の風景。
information 最近のお知らせ新着情報
- 2025年12月25日
- ❖“2025年わらじの会夏合宿 in 伊豆”。8月2日(土)~3日(日)。
- 2025年12月25日
- ❖わらじ夏合宿2024は、8月3日(土)、4日(日)の二日間、栃木県鬼怒川で。50名が参加。
- 2025年12月25日
- ❖“わらじ夏合宿2023は、1978年夏合宿発足の聖地・伊豆へ。――2023年8月29日
- 2025年12月25日
- ❖2010年08月25日:夏合宿の原風景――1978年川口とうなす会との合同合宿 わらじ夏合宿史の試み―Ⅱ
- 2025年12月25日
- ❖2010年08月27日:「共生の旅団」時代から「地域遠望」時代まで――わらじ夏合宿史の試みⅤ
2025.12.21
▽「わらじの会のHP」へ
(リニューアルしました)
◆以下、ご自分のPCを「125%」に拡大して、読むことをお勧めします。

2025.12.25
❖山下 浩志(2025年8月6日)
(facebookでの発信)
❖2025年わらじの会夏合宿 in 伊豆。8月2日(土)~3日(日)。
もう十数回目だろうか、埼玉県が静岡県伊東市に開設した伊豆潮風館に泊まるのは。
今年もたくさんのドラマがあった。
集合場所の新越谷駅で発表された6,7人のグループに分かれて、そのグループごとにルートを考えて、現地に集合する。
夜は食事の後、花火、そして交流会。
泊まる部屋の顔ぶれは、また少し異なる。
帰りは往路の顔ぶれに戻り、まためいめいルートを考えて、帰る。
見慣れた顔も珍しい顔もあるが、たまたま旅の仲間になったことで出会う顔が山ほどある。
顔はいつも見ているが、こうして一緒に歩き始めて、Iさんの体重が手首にずっしりのしかかって来るのを感じ、手のつなぎ方をちょっと工夫して歩くようにした。
からだとからだの出会い直しをしながら、Iさんと私、その他の人々の、この一年に思いを馳せる。風景の奥行きを眺め渡す。
そんな感じでよく歩いた2日間。
そして、日常に戻り、また旅を始めている。
ちょっとだけ、右の肩に残っているIさんの体重を時折り感じながら。
2025.12.25
❖山下 浩志(2024年8月12日)
(facebookでの発信)
❖わらじ夏合宿2024は、8月3日(土)、4日(日)の二日間、栃木県鬼怒川で。50名が参加。
往復とも6班に分かれ、両日の朝、出発時に6班の代表がじゃんけんをして、負けてしまった班だけは車で、他の5班は公共交通機関で行動。
公共交通機関の班は、班の中で相談して、一部区間、特急や蒸気機関車に乗ったり、途中駅で降りてあちこち回ったりできるが、車班はなるべく他の班よりも早く目的地に着いて、各班からの要請に応じて迎えに行けるように行動することが期待されるため、みなできれば電車で行きたい。
実際に、一部区間だが、特急に乗った班や蒸気機関車に乗った班もあった。
電車は駅によっては階段で車いす利用のメンバーをかつぐことになることもあり、そこから観光地へ行けばあちこち段差がいっぱい。使えるトイレ探しも苦労。それでも、班のメンバー同士の協力に加えて周りの人たちの手も借りながら、旅を楽しむ。いや、「それでも」というより、「だからこそ」。
手を借りることによって、初めてその人たちもバリアの存在に気付く。
そうした苦労と、そこで出会った人たちの人情と、TVやネットではない本物の風景の一部になっている実感。こうやって歩いて出てゆかねば味わえない感覚。
それらすべてが、わらじ夏合宿の楽しみ。
そして、私の属する班は行きは電車組で、新今市で降りて、駅前の食堂で昼食とビール。また電車に乗って鬼怒川駅へ行き、そこからロープウエイの駅めざして、鬼怒川の街を縦断した。みんなよく歩いたものだ。が、着いたとたんに、最後のロープウエイが降りてきて、がっくり。そこからホテルへの道は遠く、数人は途中で車班に拾ってもらった。
なお、今回のホテルは、1室が2~3名だった。日中の行動の班編成は男女混合だが、部屋割りは同性。同室になったAくんは20年来のつきあいだが、寝食を共にしたことは初めてで、あらためて親しくなった。
ホテルでは、夕食、朝食ともバイキング形式だったが、なんと私たちより大人数の知的障害の人たちと支援者らしき人たちと大食堂で一緒になった。ワイワイといい雰囲気。月刊わらじをどうぞと渡しながら、当事者らしき何人かと言葉を交わす。そのあと支援者らしき人とも。
千葉県のある特別支援学校の卒業生たちと現・元教員の人たちだという。年間を通し、こんな旅行やらレクリエーションやら続けておられるとのこと。大浴場でもおしゃべりした。
二日目の朝のじゃんけんで、私の属する班は負け、車班になったため、ロープウェイの駅まで車で行くことができた。が、昨日の疲労もあってか、また急な階段を見たりもしたからか、2名が下の駅で待つと言い張り、その他のメンバーで頂上へ。
私たちの車班は、その後、日光街道ニコニコ本陣の船村徹記念館に立ち寄り。北島サブちゃんはじめ思い出の歌声に大満足のメンバー複数。
なお、メンバー中若干1名は、食堂に一緒に入らず、猛暑の屋外の木陰でしのいでいて、私たちが食堂から出てきたら姿が見えず心配したが、いつのまにかおしゃれなシャツを買って着がえて現れた。
そんな珍道中もまた楽し。
ちなみに、私のブログに夏合宿の歴史がまとめてあるので、関心のある方は下記のURLからご一読ください。
https://room-yellow.seesaa.net/article/201008article_5.html
2025.12.25
❖山下 浩志(2023年8月29日)
(facebookでの発信)
❖わらじ夏合宿2023は、1978年夏合宿発足の聖地・伊豆へ。
総勢50数人が10人足らずのグループに分かれ、それぞれに海辺の崖を下ったり、駅前の居酒屋でのんびりしたり。伊豆高原駅からは潮風館の送迎バスにお世話に。
45年前の伊豆は、川口とうなす会との合同夏合宿で、200名が廃校に泊まって自炊。海岸へは長い石段を大勢の車いすのメンバーをかついで登り下り。無論、電車、バスすべて段差に満ちており、原則その200名が一斉に移動するため、交通機関はどこも非常事態となる状況下での「海水浴」だったことを思い出す。
詳しくは下記ブログ参照。
https://room-yellow.seesaa.net/article/201008article_2.html
夏合宿の原風景―1978年川口とうなす会との合同合宿 わらじ夏合宿史の試み―Ⅱ
1979年、日立・河原子海岸での合宿。浮き輪につかまって引っ張られているのは、故・新坂光子さん。会が発足して二度目の夏合宿だったが、初年度の夏合宿は先輩団体である川口とうなす会と合同で、じっさい川口の人々の企画立案に便乗した感が強いので、この年が会のオリジナリティによる初めての夏合宿といってよかった。
1978年の川口とうなす会との合同夏合宿については、「地域と障害―しがらみを編みなおす」の中で、筆者がつぎのようにふれている。
川口とうなす会の中心メンバーたちは、関西のニュースを伝え聞きながらも、自らの道を歩み続けた。将来のビジョンとして考えたのは、川口にグループゴリラのような数百名規模の集団を作り、彼らを市内各地区に配置して、地区ごとに障害者自身の生活づくりの運動をつくってゆくことだった。
「1978年、川口とうなす会とわらじの会の最初で最後の合同の夏合宿が、200名の参加で伊豆で行われたが、この合宿はいまから思えば介助者を障害者の手足に徹することのできる者として鍛えぬく、まさに地獄の特訓のようなプログラムで行われた。とはいえ、当時はそんな背景も知らず、またわらじの会の障害者たちが生まれて初めて海に入る感動に誰もが浸っていた。そして、ちょっとした成り行きで、その後二つの会は別々の歩みをたどるようになっていったのだ。」(地域 「障害が照らし出す地域―わらじの会の30年」)
写真は合同夏合宿のスナップ。この「障害者の手足」論は、重度障害者が意志表示し、共に社会を作ってゆく主体となるためには、まず介助が無条件に保障されなくては成り立たず、しれを前提として初めてけんかしたり考えあったりできる関係に立てるのだという認識に基づく「健全者友人組織」の流れをくんでいた。障害者―健全者という図式は、学生が多かった川口とうなす会にはぴったりくる感じだったが、家族やクラスメート、ご近所といった関係も多かったわらじの会にはいまひとつの感があった。
平野栄子は、前掲書の中で、つぎのようにこの合同合宿について書いている。
「伊豆下田の廃校となった小学校を借りての、自炊合宿となった。それまで障害のある人と一日中過ごすことはあったが、二泊三日の合宿はまったく想像を超えるものだった。
当時、子供は6歳と3歳、介助しながら子供たちの世話は無理だと考えていたので、両親に子供たちの世話をたのんで出発した。私は大きなリュックを背負いながら、後ろに荷物をたくさん積んだ光子さんの車イスを押した。なにしろ光幸さんにとって初めての海水浴だったし、長旅でもあった。私は何か不測の事態が起きはしないかと恐れ、不安で極度に緊張していた。
そんな時、「ママ―、行かないでー。僕をおいてかないでー」と長男が後ろから追いかけてきた。そのあとから母も「子供を置いていくんじゃない」と怒鳴って追いかけてきた。私は「行かなくちゃ」との責任感で振り向くこともできず、せんげん台駅まで必死に車イスを押し、なんとか参加した。今でもその光景は忘れることができない。」 (ご近所 「ながーいつきあい!」)
平野が「不測の事態」と書いているように、筆者も、この後何年かの夏合宿では、2泊3日の間、仮眠しか取らず、夜の見回りなどをしていた。合宿中については、やはり「障害者の手足」論を踏襲していたわけである。また、平野が書いている「不安で極度に緊張」という状態は、実行委員を担ったものの多くが共有していただろう。そんな状況を何が支えたのだろうか。
樋上が書いているように、往復は大部隊により、交通機関や街に大風を吹かせ、人々の手から手へと関わりのリレ―をつなげながら移動してゆく。
「駅の階段では、車イスの参加者を皆で他の乗降客と共に担ぎ、路線バスでは貸し切り状態で地元の乗客がびっくりする中、新坂光子さん、幸子さんらをおんぶして乗り、席に着かせた。参加者が苦労を共にする時代だった。そして当時は年1回心おきなく入浴できることが楽しみな光子さん、幸子さんらと、戸惑いながら、ときめきながら、力強く介護する仲間がいた。そんな時代が確かにあった。」
緊張や不安をカバーし、出てゆくことをかろうじて支えたのは、さまざまな人々が出合いながら街を変えてゆく予感だったのではないだろうか。
雑多な人々が一緒に行く手をきりひらきながら進んでゆく―聖地をめざす巡礼団のように、「今年は世直り ええじゃないか」と叫んだおかげ参りのように。
夏合宿の「ええじゃないか」時代は、この後9年間続く。
→わらじ夏合宿史の試みⅢ https://room-yellow.seesaa.net/article/201008article_3.html
「共生の旅団」時代から「地域遠望」時代まで わらじ夏合宿史の試みⅤ
前回まで、1979年夏合宿について述べてきた。 その後のわらじの会は、夏合宿で討論会をやったことがない。その代わり、よく近場で1泊の「くっちゃべる会」をやるようになった。
ただ、この時の討論会では、まだ抽象的な言葉にとどまっていた「地域」が、2年後のはばたく家活動の登場や、各人のその後の生活の積み重ねによって、具体的な形をとってゆく。「施設職員をやってはいけないのか」と反論した学生は、卒業後施設職員となり、かつ入所者を地域へ出してゆく活動に取り組んでゆく。すれちがい、かんちがいがほとんどの討論会だったかもしれないが、こんな「真夏の夜の夢」もあって悪いことはなかったといえよう。
さて、夏合宿は、その後、どのような歴史をたどったか。
この後、7~8年、大部隊による総力戦のようなスタイルが続く。この合宿第1期を、筆者はとりあえず、「共生の旅団時代」と名付けておく。
第1期:共生の旅団時代
1980 山中湖合宿: この年、筆者らは合宿直前までスウェーデンへ福祉体験旅行に出かけていた。
1981 再び日立・河原子海岸合宿: 夜は討論会をせず、地元の勇壮な盆踊りに参加した。この年、はばたく家準備会発足。スウェーデンの友人たちを埼玉に招く。
1982 保田海岸合宿: 寺の本堂が民宿だった。
1983 八ヶ岳・野辺山合宿: 初めて中央線コースと信越線コースの二手に分散しようとしたが台風でひとつに合流した。この年、はばたく家に市の補助が付きパタパタが開店する。
1984 嬬恋・東海大学研修センター合宿: 故・光子自立生活演習や克己画伯の一人乗車など、地域が開拓されてゆく。
1985 赤城・緑風荘合宿: 前橋の自立障害者たちの会「たまごの会」と交流。片山いく子が4人の子とともに参加。高橋幸江が2人の子と参加。この子供たちの中から、21世紀になってわらじの会の職員になる者も。越谷で車いすガイドヘルパー制度発足。わずかだが介助料の制度。野島春日部に来て一人暮らし。介助付き生活の草分け。
1986 榛名・榛名山荘合宿: この年、国際障害者年サイタマ5年目のつどいを開催、事務局の中心を担う。
第2期:埼玉―足元の新大陸発見時代
この時期は、、前年の国際障害者年サイタマ5年目のつどいをきっかけとして、埼玉という足元の新大陸を、みんなで発見し合ってゆく時代である。第1期の「共生の旅団」といった仰々しさを捨て、日常の延長で、臨機応変に途中下車して休憩しながら往復するクルマでの移動に転換する。合宿先に、埼玉の他地域団体や個人をよく招く。ここで出会うことにより、埼玉レベルのシンポジウムや交渉や合宿でのつながりが身近になってゆく。その埼玉レベルのつながりをベースに、大阪、東京をはじめ全国的なつきあいが育ってゆく時期。
1987 滑川町・松寿荘合宿: 埼玉のかっての青い芝メンバーで、閑居山コロニーにも行った安江郁子さんや坂戸の親たちのグループ「ぽてと」と交流。この年、トムテ開店。
1988 滑川町・松寿荘合宿:車で全体行動。この年、どの子も地域の公立高校へ埼玉連絡会などで知事応接室に3泊4日し、県内のきずなが深くなる。
1989 滑川町・松寿荘合宿:車で往路は二手、あとは全体行動。坂戸の竹とんぼの会と交流。
1990 吉見・フレンドシップセンター合宿:車でむさしの村経由で。鴻巣のこだわり村、坂戸の竹とんぼの会と交流。この年、バザーを初めて野外で開催(南越谷)。
1991 吉見・フレンドシップセンター合宿:車で。とんぼの会と交流。この年、県内巡礼、交通アクセス埼玉行動開始。
1992 吉見・フレンドシップセンター合宿:車で。この年、第2回県内巡礼。ぶあく開店。
1993 長瀞・白鳥荘合宿:車で。熊谷住みまちグループと交流。この年、ピープルファースト国際会議(カナダ)に遠征。
1994 鬼怒川・ニューおおるり合宿:久しぶりの電車。二日目は班行動に。この年、第3回県内巡礼。
1995 吉見・フレンドシップセンター合宿:車で往復班行動。二日目はプールに全員で。 この年、パタパタ、べしみ開所。
第3期:拡大版自立生活体験プログラム時代
この時期、車での合宿は終わり、現在も踏襲されている合宿のスタイル、すなわち、参加者が10人前後の班に分かれ、三日間とも、昼間の行動に関しては、班で計画し行動する形に転換する。日常活動では、1990年以後、はばたく家等で、主にに街に出る活動を中心とした自立生活体験プログラムが行われてきたが、その拡大版といったイメージ。ばらばらになった班のどれかが事故にあった場合、どのように対処したらいいか、しばらくの間は大きな不安を抱えながら。
1996 小淵沢・いこいの村八ヶ岳合宿: それまで長い間、例会班という会の一部のメンバーによる請負作業になっていた合宿を会全体企画へ。そのため、準備が過去もっとも遅れる。 初の完全班行動。自立ネットワークやまなし等と交流。
1997 旭・かんぽの宿あさひ合宿: 銚子のV団体、社協、市役所内売店店長等と交流。この年、東映教育映画でわらじの会をとりあげるため大熊監督が合宿に参加。合宿の1週間後、初のわら細工キャンプ実施。
1998 高崎・サンピア高崎合宿:たまごの会、幸の会、ゆうゆうグループ等と交流。
1999 久留里荘合宿: リバース協会等と交流。
2000 伊豆・潮風館合宿:
2001 桜川市・あまびき老人福祉センター合宿: 最終日、Iくん脱走事件勃発。しかし箱乗りしてつかまっている彼を知り合いが発見し数十分で復帰。
第4期;地域遠望時代
遠くにありて地域をみつめる時代としたが、合宿のスタイル自体は第3期と同じ完全版行動。
しかし、回を重ねて、ばらばらで行動することの不安に対し、腹をくくれるようになり始める。すなわち、拡大版自立生活体験プログラムといった目的意識から、徐々に解き放たれる。日常では、生活支援センターや就労支援センターを担うことにより、新たな障害者(というよりも地域からはじき出され孤立しながらも支援の対象者ではないことを自らの支えとしてきたが遂に刀尽き矢折れて「障害者」となったような人々)との関係が急にひろがり、合宿の参加者の顔ぶれも多様化する。日常的に介助を入れて生活する障害者が増え、介助にかかわる学生や主婦等も増える。それらをひっくるめて、遠方に旅する。この三日間は何かの目的をもつ旅ではなく、旅そのものが目的になる。旅する先で道すじの街や人々と出会い、地域の日常の生をみつめる。
2002 横川・国民宿舎裏妙義合宿: 地元V多数と交流。この年、かがし座、苞開所。
2003 伊豆・潮風館合宿: 中伊豆リハビリセンター入所者・職員と交流。
2004 吉井町・牛伏ドリームセンター合宿: 社協通しダンスサークル等と交流。
2005 一宮町・一宮荘合宿: 大網白里ともに生きる会、長生ともに生きる会、中核支援センター長生ひなた等と交流。この年、越谷市障害者就労支援センター発足。
2006 那須・おおるり山荘合宿:
2007 草津・おおるり合宿: 栗生楽泉園を見学。藤田三四郎さんの体験談を聞く。この年、えん開所。
2008 旭・グロリア九十九里合宿:近隣の障害者団体、機関多数と交流。
2009 猿ヶ京・ライフケア猿ヶ京合宿:近隣の障害者団体、社協、太鼓サークルなど多数と交流。
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