橋本宅手話会 その1
それはなぜ始まったのか?
橋本克己画伯は、かって地元の小学校はもちろん、聾学校からも養護学校からも入学を拒否され、就学免除のまま家で子供時代を送りました。
長屋暮らしのため、家には常に近所の人たちがお茶を飲みに寄ったり、おかずをおすそわけに来たり、にぎやかでした。みんなが「かつみちゃん」をよく知っていました。
でも学校に行けなかった「かつみちゃん」は、子供たちの世界からどんどん遠ざかっていきました。家の中でも奥の部屋にこもってトイレ以外は出てこなくなりました。縁側にいるところを垣根から子供たちがのぞいているのを見て、荒れ狂うようになりました。トイレとか食べるとか、ほんの数種類の手まね以外は、家族ともコミュニケーションの必要がなくなっていきました。
そうやって思春期を迎えた「かつみくん」にとっては、家の奥の小さな部屋が全宇宙でした。親にミニカーを買ってきてもらい、棚に並べて、毎日虫眼鏡で見たり、指で触ったりして、小さな傷がないか確認します。ほんの少しの傷でもあれば、すぐ代わりを買って来てくれと訴えます。すぐ応じないとなれば、テレビを投げたり、窓ガラスを割って、泣き喚きます。お母さんは腕の骨を折られたり、すんでのところで絞め殺されかかったこともあります。
そんな「かつみくん」の人生に転機をもたらしたのは、日赤が障害者を旅行に招待したときたまたま付き添ってくれた看護婦さんでした。その看護婦さんが、当時発足して半年ほどの「わらじの会」の運動会に一家を誘ってくれたのです。「障害のある人もない人もともに街に出よう」と、地域の多彩な人々が集まって活動するわらじの会に参加して、「かつみくん」は初めてミニカーではない、ほんもののバスや電車に乗り、たくさんの人と知り合いになっていったのでした。(上下の写真は街へ出始めた頃の「かつみくん」)
街に出た感動の中で、「かつみくん」はわらじの会の人たちや周辺の聾唖者などから、いろいろな物や人の名前を、漢字と手話で学んでいきました。乾いた砂に水がしみこむように、たくさんの「ことば」を獲得していったのです。
「かつみくん」の心はひらかれていきましたが、毎日の生活は変わりません。
あいかわらず一室にこもったきりの毎日。「かつみくん」は、その小さな部屋に自分が作り上げた世界秩序に少しでも乱れがあると、一挙に不安に襲われます。3時にはパン、5時にはご飯が届かないと暴れます。
家族は悩みぬいたあげく、「かつみくん」を施設に入れてもらうことにしました。施設は山奥です。でもほんとうにその許可が下りたとき、これまで一緒に生きてきた日々を思って泣きました。
「かつみくん」が家中のガラスを壊して家の外の闇に這って出ていった夜、家族からの電話で、わらじの会で出会った友達がそこへ行くと、おどろくほど「かつみくん」がおだやかになりました。
そんなようすを見るにつけ、迷い続けていた家族も施設へ入れるのをやめて、もう少しがんばろうという気持ちに傾いていきました。わらじの会で知り合った何人かの人たちが、週1回夜、家へ集まって、「かつみくん」を中心にした手話会をひらくという申し出を受けて、家族は施設を辞退する決意を固めました。
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